[コピペ]いい話

2013-06-15_1136

838:おさかなくわえた名無しさん:2013/06/11(火) 22:00:34

身ばれ覚悟で。
私がした武勇伝ではないけども。

自分は20代。
父母は中学のときに離婚で、どっちにもついてかなくて祖父母に育ててもらってきた。
そんで今はじいちゃんの仕事を継いで、昔の時計とかラジオとかを修理する店で働いている。
修理してほしいと持込みされた品は今まで押入れだったり、
蔵に放置されていたものだったりするのでたいていホコリや油、土まみれ。
修理が終わるころには手も顔もズボンも作業エプロンも真っ黒になるほど。

で、あるとき若い男性が
亡くなったじーさん家の倉庫から沢山貴重な時計やら蓄音機やら発掘したので直してほしいと来た。
私が見ても結構な貴重品たちで、修理代はちと値が張るが、
昔のものは何度でもきちんと動くように設計されているから、お任せ下さいと仕事を受けた。
そのときの男性は、「動くようになって帰ってくるんだー!!楽しみ!!」ってキラキラしていた。
4日後に修理完了の電話をし、引き取りに着てもらった時には
なにやらお綺麗な彼女さんを連れていらっしゃった。
小さな店に20代の若い方が来ること自体珍しいのでちょっと緊張して挨拶をしたら
私を見るなり彼女さんが小声で

「・・・わっ・・・なに・・・きたないカッコ・・・いやだぁ・・・」

と。

< 続きます >

[コピペ]いい話

450:名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 10:59:13

親父の話。

高校1年の夏休み、両親から「大事な話がある。」と居間に呼び出されたんだ。
親父が癌で、もう手術では治りきらない状態であると。
暑さとショックで、頭がボーっとしてて、変な汗が出たのを憶えている。

当時、うちは商売をしていて、借金も沢山あった。
親父が死んだら、高校に通えるわけがないことは明白だった。
そして俺はお世辞にも優秀とはいえなかった。クラスでも下位5番には入ってしまう成績だった。

その夏から、親父は、抗がん剤治療を開始し、入退院を繰り返していった。
メタボ体型だった親父が、みるみる痩せこけていった。
母親の話では、主治医の見立てでは、もって1-2年だろう、ということだった。
ただ、親父は弱音を吐くことはなかった。
親父は「高校、大学はなんとかしてやるから、しっかり勉強しろよ」って言ってたよ。
仕事もやりながら、闘病生活を続けていた。


451:名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 11:01:09

俺といえば、目標も特になく、高校中退が頭にチラついて勉強は進まなかった。
ただ、ボーっと机に向かって、勉強するフリだけはしていた。
せめて親父を安心させるためだったと思う。

だから、その後の成績も、とても期待に添えるものではなかった。
ただ、親父の「高校、大学はなんとかしてやる」の言葉が、重かった。

「おまえ、将来、何かやりたいことはないのか?」

高校2年の冬、痩せこけた親父に問いかけられた。
俺は、期末テストで学年ビリから2番をとり、担任からも進路について厳しい話をされていた。
言葉もない俺に、怒ったような泣いたような顔で親父は言った。

「・・・ないなら、、医者になれ! ・・・勉強して、医者になって、おれの病気を治してくれ!」



2013-06-07_0719

452:名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 11:02:52

上手く説明できない熱い感情に、頭をガツンと打たれた。
自分への情けなさとか、怒りとか、色々混じったものが込み上げた。
その時、親父には返事を返すことはできなかったが、俺は決意した。
それから、猛烈に我武者羅に勉強した。

高校3年の夏、親父は逝った。
親父は、闘病生活の2年間で借金を整理し、俺の高校の学費をなんとか工面したそうだ。
親父のおかげで、高校卒業できた。
そしてありがたいことに、1年間の浪人生活を経て、俺は地方の国立大学の医学部に合格した。

俺は今、癌専門治療医として働いている。
親父は、「あいつは、将来おれの病気を治してくれるんだ」と母に言ってたそうだ。
まだ、親父の癌を治す力はないが、日夜頑張っているよ。
いつか、親父の癌を治せるように。

[コピペ]いい話

2013-06-14_1623

675:なごむ:2011/01/26(水) 19:59:23

去年の始め、近所のお婆さんが、「庭に迷いこんできたから」と子犬を飼い始めた。
私は小さい頃お世話になった縁で買い物を頼まれたり、ご飯の用意や掃除に行ったりしてた。
足が弱く、旦那さんに先立たれて身寄りも無く、一日座ってテレビばかり観てるような方なので心配してたんだが、
お婆さんはちゃんと毎日犬を散歩に連れて行くようになった。
最初は杖をついて近くをゆっくり歩くくらいだったのだが、
これが良いリハビリになったのかそのうち杖がいらなくなり、公園まで出向いて他の高齢者と立ち話するくらいに回復。
買い物もご飯も掃除もご自分で全部出来るようになった。
更にそこで出会ったお爺さん(奥さんに先立たれてから一人暮らしの方)に一目惚れし、
犬を連れて公園行く為にお洒落してヘアメイクもバッチリキメるようになった。

「ねえお夕食に誘われたんだけどこれってデート!?
どうしようお洋服これでおかしくないかしら!?」

と私に聞いてきたのが去年の秋。
現在、籍は入れてないものの二人は同居していて、
二人で犬の散歩する姿はどう見ても長年連れ添った夫婦のよう。

「後はもう死ぬだけだと思ってたけど、おチビちゃん(犬)のおかげ」

と口を揃えて言い、我が子のように犬を可愛がっている。
犬一匹で変わるもんだと驚きつつ、お二人を見掛けるたびになごむ。
ちなみにおチビちゃんは大人しくて賢い犬だが、秋田犬の血でも入ってたのか今や全然おチビちゃんではない。

[コピペ]いい話

2013-06-14_1642

こんな先生に出会いたかったです。

高校の生物教師は進化論を支持していた。そして教える前にはこう言った。

「これは君たちの幾人かにとっては、
かなり反感を買うテーマであることは理解しています。
だけど私は気にしません。

これは科学の授業であり、今からこれを教えます。
ここは神学の授業ではないので宗教上の討論はしません。

私は普遍的な真実について述べるだけであって、あなたがたの気分を害しないために嘘を言うつもりはありません。
これを学びたくないと言うのであれば、出て行ってもらってかまいません。

このクラスに出席しないという許可も与えます。
ただし出席しない場合は成績は今学期はゼロです。

無知でいることがそんなに重要だというなら、
ドアはあちらです。

来年会いましょう」

その先生が好きだった。

[コピペ]いい話

2013-06-14_1646

687:1/4:2013/02/09(土) 07:37:22

実話な。

2005年のJR福知山線脱線事故のドキュメンタリを、
ナショナルジオグラフィックでやってたんだ。
まぁ、外国製作らしいクサい演出もあったんだけど、
生存者や、生存者家族のインタビューが多くて、
見る価値がある番組だったと思う。

滋賀県に、長谷貴將(はせたかのぶ)さんっていう、
救急医療のスペシャリストのお医者さんが居た。
ニュースで事故を知って、レスキュー隊だけじゃ現場に手が足りてないだろうって、
自発的にチーム率いて、二時間掛けて大阪まで行ったそうな。
一両目、足が下敷きになっちゃって激痛に苦しんでる男性のとこに長谷医師が行って、
現場気温40℃を超える中でまず

「済生会、滋賀県病院の、長谷貴將といいます」

って自己紹介したんだって。

「普通に病院に行っても、まず自己紹介するようなお医者さんには会ったことがありませんでした(笑)」

って、そこのインタビューだけ何だか和んだ。

痛くて痛くて、早く瓦礫どけて助けてくれー!ってなってる男性に、
長谷医師がクラッシュ症候群の危険を昏々と説明して、
「服を切らせて頂きますね」とか
丁寧な物腰を崩さなかったので、感激したって言ってた。


688:2/4:2013/02/09(土) 07:39:27

一両目から運び出された他の女性がほんとに重篤だったんだけど、長谷医師と、
一緒に来たチームのアキトミ医師の二人も、
必死に救命活動しながら病院まで付き添って行って、
その女性も助かった。

障害が残ったけれども笑顔が戻った女性と、
女性の母親と、アキトミ医師の3ショットの映像は
素晴らしかった。

しかも、その女性をヘリで送り届けた後でも、
チームは現場に戻って来てまた何人も助けてんだよ。
もう生きた人間は居ないんじゃないか、って、
粗方のレスキューが引き揚げた後の、地獄の現場で。

一両目、運転手の死体の傍で7時間耐え続けてた大学生もその一人。
クラッシュ症候群って、現場での救急医療が何より大事なんだよな。
もし長谷医師のチームが来なかったら、死者が増えてた。

こんな医者が居るのか!って本当に感動して番組を見終えた。


…までは良かった。

突如黒くなる画面。

「This film is dedicated to Dr.Takanobu Hase.
He died in 2006.」

この番組を長谷貴將医師に捧げます。彼は2006年に亡くなりました。


689:3/4:2013/02/09(土) 07:44:06

はぁ!?死んだ!?
信じられなくて、色々調べた。

最初は、忙しいから不摂生とかして病死されたとか、事故死とか色々楽観的なこと考えてたよ。

でも現実は最悪だった。自殺だ。事故から1年ちょいしか経たない内に、自ら命を絶ったんだ。
以下、当時のニュース記事からコピペだけど。

・救命活動が全国に知られ、病院側の指示で講演や会議への参加などが増えた。
・病院は〈広告塔〉として、講演や研修活動に取り組むよう指示した
・病院側は長谷さんの赴任前から提示していた 「(救命救急センターに)2人の部下を置く」
 という条件を実現させなかった
・このため、多忙を極めた上、同僚から中傷を受けるなどして、うつ状態に追い込まれていた
・講演や会議などの対外活動が増えると、やっかみとも取れる不評が院内から噴出。
 同僚医師からは「それでも救急医か」 「こいつの言うことは聞かなくていい」などと罵倒された


690:4/4:2013/02/09(土) 07:46:16

・亡くなる前日には、長谷さんが準備に心血を注いできた、済生会主催の学会で
 英国人医師を招請する企画をめぐり、事務担当者と対立。
 それまで企画を支援してきた病院幹部からも「一晩頭を冷やせ」と冷淡な態度で
 突き放されたことで決定的に追いつめられた

遺品の中から見つかった長谷さんの手帳には、
スケジュールがびっしり書き込まれていたという。
長谷医師は、脱線事故の現場を振り返って

「自分が死んでもいいと思っていた。とにかく被害者を助けたかった」
と話していた。

本当は長谷医師は、公演や会議なんか置いておいて、
いつでも現場に居たかったんじゃないだろうか。

東日本大震災の時にこんな人が居てくれたら、
と思い、でももう居ない死んだんだ、
という思考の反復を今でも繰り返して、後味悪い気分を味わっている。

2月11日、またナショジオで福知山線の番組やるらしいから、カキコ。