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管理人ayu

福岡市在住。エンタメ、ラジオ、音楽、ガジェット好きです。2000年頃から長いことやってます。日々の暮らしを豊かにする何かを探しております。
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[コピペ]泣ける,[コピペ]画像

2014-11-12_0017

実はのび太の結婚前夜よりも、ペロよりも、おばあちゃんよりも、泣けるエピソードがあるんです。

なんと2巻で!

2巻はタイムふろしきは出てくるわ、アンキパンは出てくるわで、名作ですね。

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「ロボ子が愛してる」が泣ける


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[コピペ]泣ける,テレビ・ラジオ,今週の1曲

2014-08-31_2205

先週の菊地成孔の粋な夜電波での菊池さんのオープニングトークがすこぶる素晴らしく、そして一曲目にかかった名曲中の名曲、山下達郎氏の「SPARKLE」を聴いて涙が止まらなかったので、おせっかいにも書き起こし付きでオープニング音声を紹介したいと思います。スマートフォンでも再生可能です。

詳細は以下より

[コピペ]泣ける

2014-05-29_2250

374:名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/24 07:17:08

初めて書き込みます。
少し長いです。昨夜の話です。

俺は自営業で、ちょっと特殊な仕事をしていた。
従業員も使っていたし、余裕もあったので
今の嫁と結婚する時は、専業主婦でもいいよ!と、嫁に言ったが
私も一緒に仕事がしたい!と言ってくれ
仕事に関しては、まったく素人だったが
嫁に合っていたらしく、嫁はメキメキと仕事が出来る様になった。
従業員達との関係も良いし、本当に皆、家族同然だった。

そんな中、俺が仕事で大怪我をした。
後遺症が残り、片足は完全に駄目で、もう片足は何とか感覚があるだけ。
なんとかリハビリをするものの、完全には元に戻らず
ほとんど車椅子生活をしている。
もちろん、仕事も出来なくなった。
仕事が好きだった俺は、酷く落ち込み
一時鬱にもなった。
これから先、嫁と従業員を抱えて、どうすればいいんだ。
と、途方にくれていた時、嫁が病室にきて
「ねぇねぇ!次の仕事ね、こうしたいんだけど、どう思う!?」
と、あっけらかんと聞いてきた。
見舞いにきた従業員も皆、次はどうすればいいですか!?
と、聞いてきた。
嫁も、従業員も、会社を潰さないように必死だった。
それからは、嫁に病院から頻繁に連絡したり
見舞いに来てくれた時に、仕事の指示を出したりして
俺が退院するまで持ってくれた。
退院してから、リハビリに通い、それでも車椅子生活が続き
仕事も家事も、嫁が従業員と手分けして
全部やってくれた。
俺は、このままではいけないと思い。
車椅子のまま、何とか事務処理だけはしようと
気合いで頑張った。
そして、嫁の代わりに俺が家事をしようと思い
ゆっくりしか出来ないけど、料理と洗濯と
簡単な掃除だけは出来る様になった。

375:名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/24 07:23:39

完全に専業主夫状態になった俺は
嫁に対して、かなり負い目があった。
悔しくて、辛くて、死にたくなる時もあった。
それでも嫁は
「なぁ~に言ってるの!あんたがいなきゃ
仕事の指示出せないじゃない!!
あんたは家の事やってくれてるんだから
立派に働いてるよ!!
仕事の事は、私にまっかせなさーい!!」
と言って、常に明るく振る舞っていた。
俺も、嫁や従業員が励ましてくれる事もあり
足は治らないが、心はかなり回復した。

事故から数年経ち、いつの間にか嫁は立派な経営者となった。
俺が指示する事もあるが、ほとんどは嫁の判断でやっている。
従業員も、定年退職した人以外は
ずっと同じメンバーがいてくれて
若い人も少しづつ増えてきた。

そして、ここ何年間の間で
俺は自分の事と、仕事の事で頭がいっぱいで
嫁に「愛してる。」と言っていない事に気づいた。
俺みたいな、障害者で、主夫やらせてもらっている分際で
嫁に愛してるなんて言ってもいいものか?と思ったが
ここに書いてる皆の書き込みを見て、勇気を貰い
昨晩、決行した。

377:名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/24 07:28:20

仕事から帰ってきた、汗だくの嫁に風呂を進め
その間、俺は自分と嫁の分の晩酌を用意した。
この時点で、俺の心は何故か緊張しっぱなし。
嫁が風呂から出てきて、二人で酒を飲んだ。
なんとなく会話が続かなくて、モゴモゴしてる俺に嫁は気づき
「どうしたの?」と聞かれた。
俺は今まで、結婚してから苦労をかけた話と、これからも死ぬまで苦労を
かけ続けるだろうと言う話をし
最後に、「お前がいなかったら、俺はきっと死んでいた。
お前が色々してくれるから、俺はこうして生かして貰っている。
ありがとう。愛してる。」
と、嫁の目を見て言った。
 
そしたら、嫁はジワジワと泣き顔になり
次に、大泣きしながら俺に飛び付いてきた。

[コピペ]泣ける,

youhe_5924

ああ、ペットの死についてのスレをまた開いてしまいましたorz
そこからの抜粋です泣けます注意。

32:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/12/06 14:08:34

お前が辛いって思うってことはそれだけ愛情を注いであげたって証拠だよ
いずれ迎えるその日まで変わらず愛情を注いでやれ
そしてその日を迎えたら「ありがとう」って言ってやれ
それを乗り越えたらたまには思い出してやれ
笑顔で語れるようになった時に初めて本当に心が繋がるんだ

53: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/12/06 14:27:25 ID:zI3rZRUQ0

ぶっちゃけ新しい子を飼い始めるのもありだと思う
自分が死んだから飼い主が塞ぎ込んでる、なんて知ったら悲しいと思う
もちろん忘れないでいてあげてほしいけど

84:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/12/06 14:45:52

犬  「眠るの!?僕、眠るの!?ねぇ!今!ここで眠る!?」
飼い主「あぁ、眠るよ」
犬  「本当!?大丈夫なの!?ただ疲れただけじゃない!?」
飼い主「あぁ、15年も生きたから大丈夫だよ」
犬  「そうかぁ!僕犬だから!犬だから歳わかんないから!」
飼い主「そうだね。わからないね」
犬  「うん!でも15年も生きたんだ!そうなんだぁ!じゃぁ眠っていいんだよね!」
飼い主「そうだよ。いいんだよ」
犬  「よかったぁ!じゃぁ眠ろうね!穏やかに眠ろう!」
飼い主「うん、眠ろうね」
犬  「あぁ!15歳だから大往生だね!ね、ご主人様!」
飼い主「うん。静かに眠っていいよ」
犬  「あぁーご主人様は今ぼろぼろ泣いているよー!笑って見送って欲しいよー!今までありがとねぇー!」

140:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/12/06 15:45:19

あまりに悲しむ想いが強すぎると気になって天国でいつまでも待ってて生まれ変われない
たまに思い出してやると生まれ変わろうとする子がまた探せるんだってよ

ガキの頃にそんな話聞いて今でも信じてるなぁ・・・

163:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/12/06 16:12:03

しつけの段階で叩いてしまったり、うるさくて冷たくあたってしまったりした
犬ってその気になれば人間一人くらいぶっ殺せる強さがある訳でさ
殺さなくても叩いてきたら噛み付いてケガさせるくらいは簡単な事なのにさ
全然反撃してこないの、悲しい目でこっち見つめるだけなの

俺がアホみたいに外で遊んでる時も犬は家で待っててそれ以外の世界は散歩道くらいしか知らないの
それでも飼い主飼い主って懐いてくれるの

俺なんて対した事もしてやれてないし
やろうと思えばもっとできたはずなのに

死んだ途端にこんな事ばっかり考えて後悔しまくってしまう
今元気な子がいる人は後悔しないぐらい愛してあげてほしい

ユウヒさんも10歳。ゴールデンの寿命からいってあと数年。後悔のないよう遊んであげようと思います。

[コピペ]泣ける

2013-12-16_2135

476:名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/04(木) 17:27:47

先週の話。
嫁の優しさに不覚にも号泣してしまった。
文章下手だけど、頭整理するためにも書かせてくれ。

俺は今でこそ普通体系だけど、
高校まではずっとチビ&体格悪くて、中学ではイジメにあってた。

殴る蹴るは当たり前。
あとは物隠されたり、指差して笑われたり。
悪口を面と向かって毎日言われたりして、
頭おかしくなるんじゃないかと、一時期本気で思ってた。
中心人物は体格のいいジャイアンタイプのDQN。
勉強できない・運動は得意・徒党を組んで弱いものいじめを楽しむ
本当にありがちなタイプ。
そいつから逃げたくて必死に勉強して、
県内有数の進学校→国立大→地元の大企業に就職した。
高校大学では一生物の友達もできて、
今は5年付き合った女の子と、先日結婚した。
このまま、過去を忘れて幸せになれるんだと思ってた。

したら先週、実家付近でジャイアンに遭遇した。(以下G)
Gは俺を見るなりニヤニヤ近寄ってきて
「○○くんじゃ〜ん久しぶりww元気してた?ww」
あぁ、こいつは今も何も変わってないんだなぁって
背筋がすっと寒くなったよ。
Gは聞いてもないのに自分のことをベラベラと話し出した。
・自分は高校から女にモテて仕方なかった
・大学は、バイトしてた出張ホストの店?に
「どうしてもこのまま働いてくれ」と言われたので行かなかった。
・30くらいになったら社畜になってもいいかな
・今もモテるから、何人もの女に貢がせてる
と、まぁいい年して何言ってんの?ってことを自慢げに話し続ける。

<続きます>

[コピペ]泣ける

2013-12-08_2126
901:名無しさん@HOME:2013/06/16(日) 09:39:54

うちの現旦那と私の実兄は親友で、旦那の実妹と私は幼馴染み。

旦那の妹(以下義妹)は私の実兄と結婚したんだけど、義妹妊娠中に私実兄が事故で他界。

私や旦那(当時まだ婚約すらしていない)も手伝いつつ、義妹は一生懸命娘を育てていたんだけど、6年前にまだ一歳半の娘を残して病気で他界。

その後、義両親が娘を引き取り、さらに半年後、私と旦那が結婚→義実家同居(良トメは足が悪いので動き回る娘を見るのが大変)

長いので切ります。

902:名無しさん@HOME:2013/06/16(日) 09:39:55

それをきっかけに、娘を私達夫婦の養女にすることにした。

生まれた時から知っている子で、実娘のように思っていた子だったし、私とも旦那とも血の繋がりがあるというのもあり、周りも協力的で本当に助かった。

そんなこんなしているうちに、近距離別居の義弟夫婦出産して、生まれたばかりの姪を連れて遊びにきたので、一緒に夕飯を食べていたら義弟嫁が

「お腹を痛めて産んだ子はほんとかわいいですよ~あっ、ごめんなさい!私子さんにはわかんないですよねwなんかすみませんwでも、所詮よその子はよその子っていうかwww」

的なことを言いやがった。

次で最後です。

[コピペ]泣ける

2013-08-19_2046
845:774RR:2013/05/27(月) 11:13:32

去年車のローンが終わるから嫁にバイク買ってもいいよって言われて
初めてバイク板に来て嬉しさのあまり一番勢いのあったこの(多分)スレに報告して何故ひとツーに?と言われたのはいい思い出
今年に入ってNinja250が発売と聞いてウキウキして嫁とどこ行こうかとか計画立てて
他のバイクとすれ違ったらヤエるんだぜとか2人で練習してたのに
嫁が乳がんで入院した

30代とか若いうちの癌は進行が早いとか聞いた事あるけどほんとあっという間の感覚しか残ってない
抗がん剤治療で髪が結構抜けた状態で
後ろに乗って髪をなびかせたかったけど今は髪がなくてできなくなっちゃったね
とか笑顔で冗談言ってんじゃねーよ
旦那ちゃんのバイクの後ろに乗りたかったなとか諦めた事言ってんじゃねーよ
最後心臓マッサージしている医師に今心臓マッサージで心臓が動いている状態ですが続けますか?とか言われんの
あれが普通なんだろうけど心臓マッサージってかなり胸が沈むからこれ以上は傷付けないで下さいって泣きながら言ったよ
お通夜の日は斎場に泊まって嫁に触ってみたんだけど
死後硬直がないから首が動くんだよ
あれ生きてんじゃね?生き返るんじゃねと思ったほど
でも冷たいんだよね
病名を聞かされたり、亡くなってから思うんだが
あれをしてやれば良かったとか後悔しか残らない
お前らも付き合ってる彼氏、彼女、嫁、旦那が居るなら
むかつく事やうざい事もあるだろうけど亡くなってから後悔する事もあるから大事にしろな
下の子供の面倒もあるしバイクには当分乗れそうにもないからこれでバイク板は去ります

子供が成人したらバイク買う予定なので、その時はお前らが嫌がるほど嫁の分までヤエってやるぜ

850:774RR:2013/05/27(月) 11:35:09
>>845 いつでもおいで。すれ違ったら俺からヤエってやるよ。

851:774RR:2013/05/27(月) 11:36:09
>>845
待ってるぜ

854:774RR:2013/05/27(月) 13:44:44
>>845 マジ泣けた。家族大事にするよ。戻ってこいよ。

861:774RR:2013/05/27(月) 15:24:33
>>845
やべぇ、前半が俺と似てる
俺も先月20年ぶりにバイク買ったんだが、車のローン無くなったからと、嫁(33)が許可してくれた。
小さい子供もいるし。
金無いから原二(PCX)買ったんだが、嫁もPCX気に入ってしまって今免許取りに行ってるわ。
嫁もPCX買うとか言い出して、買ったら2台でツーリング行こうとか話してる。
普段くそムカつくこともある嫁だが>>845読んで大事にしようと思ったわ。
とりあえず乳がん検診行かせよ。

[コピペ]泣ける,ネタ

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アイドル中川翔子さんがジャッキー・チェンの大ファンだというのは結構有名なハナシですが、それにまつわるエピソードが素晴らしかったので紹介したいと思います。

――実際にジャッキーと運命的な出会いをされたそうですね。
「10年前は、生きていて何もいいことがないし、消えてしまいたいと思っていたけど、
一つだけ夢が叶うのなら、ジャッキーさんを生で見たいなって母と話していたんです。
それで16歳の誕生日に、母と一緒に香港のジャッキーさんが経営されているレストランへ行ったら、
斜め前にジャッキーさんが座ってて!

世界的なスターが食事中にファンに見つかったら最悪だろうと思って、
最初は声をかけないようにしてたんです。
でも、ジャッキーさんは私にとって神様なので、号泣しながら震えてしまいました。

当時、貧乏だったけど、ジャッキーさんのレストランだったので、
エビやアワビなど高いメニューをいっぱい頼んだのにのどを通らなくて。
そしたらジャッキーさんが私たちに気づいて

『どこから来たの? どうしてごはん食べないの?』

って日本語でいっぱい話しかけてくださったんです。私は泣きながら

『今日誕生日なんですが、こんなに特別な日にあなたにお会いできるなんて、生きていて本当に良かったです』

って伝えました。
そしたら、当時ジャッキーさんはケガをしていたのにこっちまで歩いて来てくれて、
自分のスペシャルなカードに

「To Shoko Happy Birthday! With Love Jackie Chan」

ってサインを入れてプレゼントしてくれたんです」

――ジャッキーとの出会いで、中川さんの人生が変わったわけですね。

「その時、会計もジャッキーさんがしてくれて、
おまけに見えなくなるまで笑顔で手を振ってくださって。母と共に

『ジャッキーさんから返しきれない奇跡をいただいたので、
どういう形でもいいからいつか恩返しができるように生きていこう』

と心に誓ったんです。その後、まさか芸能界に入るとは思ってなかったんですが、
実はジャッキー・チェン事務所の日本支部に所属しました。

でも、うまくいかず、弱い心に何度かくじけそうになったけど、頑張っていって。

そしたら、あるバラエティー番組で、偶然来日していたジャッキーさんにお会いできたんです。それで

『16歳の時、あなたにごはんをご馳走してもらい、サインをもらって嬉しかったです』

と言ったら

『今度は僕にサインをちょうだい』

って言ってくださって。どこまでカッコイイんだろうって。

だから、今回、この仕事は、私にとって歴史に残る大きな出来事でした」

[コピペ]泣ける

2013-05-29_2322

相変わらず子どもネタには弱い僕です。自分に置き換えちゃって大変です。

二歳の子どもに異変が起こるところから始まります。

突然だけど、うちの娘の話をしたいと思う。

うちの娘が二歳の時だ。娘の様子がおかしいことに気づいた。
言葉の発達が遅いのは以前から気づいていたが、あらためて考えるとおかし
いことだらけなのだ。

食事は手掴みで口に押し込む……
いつまでもおむつが取れない……
人の話を聞かず常に興奮状態……

年相応の成長が見られず体だけが成長していく。
これはあまりにもおかしい……

妻と相談していると親戚から県内でも一番高度な脳神経医療を行う病院の事
を聞かされた。 その病院のサイトを調べたところ、
一週間後にその病院で小児の脳神経発達相談を一日だけ開くことがわかった。

俺は仕事を休み、100km以上離れたその病院に向かった。
ちなみにその発達相談は月一回であり予約制、うまく空きがあったのはラッ
キーだった。

発達相談で某有名医大の小児脳神経の専門家に診てもらい、
時間の空きがあると言うことで念のために脳のMRI画像も撮ることにした。

<続きます>

[コピペ]泣ける

daddy

37:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/23(金) 23:13:26

私の父は、高校の時野球部の投手として甲子園を目指したそうですが、
「地区大会の決勝で9回に逆転されあと一歩のところで甲子園に出ることができなかった」と、
小さい頃良く聞かされていました。

そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。
父も良くキャッチボールをしてくれました。
そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は
迷わず野球部に入部しました。

ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。
その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からは
ずっと病院に入院したきりになってしまいました。

父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、
なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。
父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。

そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。
それを父に報告すると、一言

「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」

と言われました。

翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、
私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。
公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、
私にマウンドから投げるように要求しました。

父とのキャッチボールは、小学校以来でした。
しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。

病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。
すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。

「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。

私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。

38:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/23(金) 23:14:08

父は、細い腕でボールを受けてくれました。
ミットは、すごい音がしました。
父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。
ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、
ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。

30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。
「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、
甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。

その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。
さらに数週間後、父の意識は無くなりました。
そしてある秋の日、父は亡くなりました。
病名は父の死後母から告げられました。
ガンでした。

病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。
父の日記でした。
あるページには、こう書かれていました。

「○月○日  今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。
弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。
びっくりした。すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。

彼は甲子園に行けるかもしれない。その時まで、俺は生きられるだろうか?
できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。
もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。
人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、
俺は幸せだった。ありがとう」