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管理人ayu

福岡市在住。エンタメ、ラジオ、音楽、ガジェット好きです。2000年頃から長いことやってます。日々の暮らしを豊かにする何かを探しております。
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[コピペ]笑える

2014-03-15_2226

104:名無しさん@お腹いっぱい。:2014/02/22(土) 09:48:58

コンビニで空気の読めない親父っているよな。
こないだもこのスレを笑えない出来事があったよ
おれ「年齢確認のため、ボタンを押してください 」
親父「ハァ?未成年に見えるのかよ?」
おれ「明らかに未成年に見える場合には、年齢を確認できる身分証を提示してもらってます」
親父「だ・ か・ら、おれが未成年じゃないのは明らかだろう?」
おれ「当店・当チェーンでは販売時にボタン押していただいた方に販売しています」
親父「俺の年齢なんて明らかだろう。お前が押せよ」
おれ「もし嫌でしたら外に自販機もありますから 」
親父「タスポなんか持ってねぇよ」 ブチッ
おれ 「だったらこのボタン押せよクソ親父!」
親父「客に向かって何だその態度は!?店長を呼べ!!」
店長「お客様、どうなさいましたか?」
親父「店長?ちょっと若すぎるんじゃないか?」
おれ「若いけど店長だよ。店長すんません、クソ親父がネチネチしつこくて」
親父「なんだその態度は!店 長さん、いつもこの愚息が世話になっております」
店長「は?」
親父「なにか迷惑をかけてないでしょうか」
おれ「お前、が、 今、迷惑をかけているんだよ」
親父「お前が年齢が明らかな客に対しても年齢確認するからだろうが!!」
おれ「お前だけ特別扱い出来るか馬鹿野郎ッ!おとなしくボタン押せば済んだ話だろうが!」
親父「誰のおかけでここまで大きくなったt(r y」
店長「ちょっと裏でやってくれないか?」

[コピペ]ほのぼの

2013-06-08_0835

264:風と木の名無しさん:2013/05/26(日) 21:25:45

今日カフェにいたらあちらのお客様からですってケーキがきた
えっなにこれこんなの初めてっていうか今時こんなことする人が
というかなぜ私ーーーーと色んな考えが駆け巡った末
あちらのお客様の方を向いたら見たこともないようなドヤ顔で手を振る父がいた

私「………父です」
店員「素敵なお父様ですねwww」

顔から火が出るかと思いました

[コピペ]いい話

450:名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 10:59:13

親父の話。

高校1年の夏休み、両親から「大事な話がある。」と居間に呼び出されたんだ。
親父が癌で、もう手術では治りきらない状態であると。
暑さとショックで、頭がボーっとしてて、変な汗が出たのを憶えている。

当時、うちは商売をしていて、借金も沢山あった。
親父が死んだら、高校に通えるわけがないことは明白だった。
そして俺はお世辞にも優秀とはいえなかった。クラスでも下位5番には入ってしまう成績だった。

その夏から、親父は、抗がん剤治療を開始し、入退院を繰り返していった。
メタボ体型だった親父が、みるみる痩せこけていった。
母親の話では、主治医の見立てでは、もって1-2年だろう、ということだった。
ただ、親父は弱音を吐くことはなかった。
親父は「高校、大学はなんとかしてやるから、しっかり勉強しろよ」って言ってたよ。
仕事もやりながら、闘病生活を続けていた。

451:名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 11:01:09

俺といえば、目標も特になく、高校中退が頭にチラついて勉強は進まなかった。
ただ、ボーっと机に向かって、勉強するフリだけはしていた。
せめて親父を安心させるためだったと思う。

だから、その後の成績も、とても期待に添えるものではなかった。
ただ、親父の「高校、大学はなんとかしてやる」の言葉が、重かった。

「おまえ、将来、何かやりたいことはないのか?」

高校2年の冬、痩せこけた親父に問いかけられた。
俺は、期末テストで学年ビリから2番をとり、担任からも進路について厳しい話をされていた。
言葉もない俺に、怒ったような泣いたような顔で親父は言った。

「・・・ないなら、、医者になれ! ・・・勉強して、医者になって、おれの病気を治してくれ!」

2013-06-07_0719

452:名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 11:02:52

上手く説明できない熱い感情に、頭をガツンと打たれた。
自分への情けなさとか、怒りとか、色々混じったものが込み上げた。
その時、親父には返事を返すことはできなかったが、俺は決意した。
それから、猛烈に我武者羅に勉強した。

高校3年の夏、親父は逝った。
親父は、闘病生活の2年間で借金を整理し、俺の高校の学費をなんとか工面したそうだ。
親父のおかげで、高校卒業できた。
そしてありがたいことに、1年間の浪人生活を経て、俺は地方の国立大学の医学部に合格した。

俺は今、癌専門治療医として働いている。
親父は、「あいつは、将来おれの病気を治してくれるんだ」と母に言ってたそうだ。
まだ、親父の癌を治す力はないが、日夜頑張っているよ。
いつか、親父の癌を治せるように。

[コピペ]泣ける

daddy

37:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/23(金) 23:13:26

私の父は、高校の時野球部の投手として甲子園を目指したそうですが、
「地区大会の決勝で9回に逆転されあと一歩のところで甲子園に出ることができなかった」と、
小さい頃良く聞かされていました。

そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。
父も良くキャッチボールをしてくれました。
そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は
迷わず野球部に入部しました。

ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。
その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からは
ずっと病院に入院したきりになってしまいました。

父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、
なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。
父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。

そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。
それを父に報告すると、一言

「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」

と言われました。

翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、
私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。
公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、
私にマウンドから投げるように要求しました。

父とのキャッチボールは、小学校以来でした。
しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。

病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。
すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。

「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。

私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。

38:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/23(金) 23:14:08

父は、細い腕でボールを受けてくれました。
ミットは、すごい音がしました。
父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。
ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、
ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。

30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。
「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、
甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。

その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。
さらに数週間後、父の意識は無くなりました。
そしてある秋の日、父は亡くなりました。
病名は父の死後母から告げられました。
ガンでした。

病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。
父の日記でした。
あるページには、こう書かれていました。

「○月○日  今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。
弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。
びっくりした。すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。

彼は甲子園に行けるかもしれない。その時まで、俺は生きられるだろうか?
できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。
もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。
人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、
俺は幸せだった。ありがとう」

[コピペ]いい話,[コピペ]泣ける

67:名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/21(木) 01:24:49

初めてこのすれに書き込む

俺は×1で嫁と結婚した
元嫁との間には息子と娘がいた
離婚理由は元嫁の浮気 だが親権は元嫁に行った
元嫁は間男と結婚し、子供達はそこで暮らしていた

子供達とはたまに会えたが、子供達も今の間男が
一応父親のため、あまり親子の感じはしなかった

嫁も子供も間に奪われ、死んでしまいたくなって
無気力に生きていた俺が現嫁と出会い数年後に結婚

子供を作ったらまた逃げられるような気がして
数年作らなかったが、気持ちも癒えてきたので子供を作った

今嫁との子供はかわいい。
今嫁は子供が出来ても、俺を捨てなかった

これから、頑張ってこの子を育てようと思っていた矢先、
元嫁夫婦が事故で死んだ

68:名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/21(木) 01:29:44

夫婦で買い物に行く途中、トラックに潰されたそうだ
俺にも連絡が来て、慌てて家に行くと、子供達が飛びついてきた
いつも俺の前でクールだった子供二人が、あんなに取り乱すのは初めてだった

葬儀後、話は当然子供二人の面倒を誰が見るかという話になったが、
元嫁も間男も親はホームに入っていてとてもではないが面倒はみれない

親戚も引き取りたくない、と言った。
二人のうち一人なら、という人もいたが、兄弟を引き離すのはかわいそうにも思えた

子供二人は自分たちがこれからどうなるか幼いなりに考えたらしく、俺に言った

「お父さんのところにいきたい」

正直、困った。
俺はもう今嫁と家庭はあるし、赤ん坊も産まれたばかりだ。
だいたい嫁がいい顔をするわけがない。

だが、子供はかわいい。
泣いて一緒に住まわせてくれ、わがままはいわないから、部屋を
貸してくれるだけでいいから、義務教育が終わったらすぐ出て行くから、
という子供達を見捨てたくなかった

69:名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/21(木) 01:33:31

元嫁のところから戻ってきた俺を、今嫁は心配そうに出迎えた
元嫁の浮気で離婚したことも、子供が二人いたことも今嫁は知っている

事故の詳細などを話すと、今嫁はやはり、
「あなたの子供二人はどうなるの」と聞いてきた

観念して話した。
今嫁との生活が大事だった。
子供を引き取るなら離婚だと言われれば、子供には悪いが
今嫁と今の子供をとろうと思うくらいには

だが、今嫁はあっさり「いいよー」といった。
こともなげに。

「まだこの子も赤ん坊だからよくわかんないだろうし、
 逆に今引き取った方がいいよ」

と言ってきた

俺は驚いて、本当にいいのか、いきなり中学生が
二人も増えるんだぞ、おまえの血は入ってないんだ
愛せるのか、大丈夫か、無理をしてないかといった

だが嫁は

「あなたの子供でしょ?なら私の子供だよ。
 あっちが私みたいなお母さんでいいならだけどw」

と言ってくれた

70:名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/21(木) 01:39:41

ものすごく心配だったが、俺は一番望んでいた形だった
そして、子供達を引き取った。

子供二人は最初おびえたり、卑屈になったり反抗期を迎えたりして
今嫁に相当心配もかけたが、本当に今嫁は分け隔てなく育てた
影で暴言を吐いたりすることも愚痴を言うこともなかった

子供二人が大学に行く時、嫁はお祝い会の後、俺に言った

「わたしね、子供三人とも大好きよ。
 上二人は私の血が繋がってないから、正直愛せなかったら
 どうしよう、って不安だった。

 でももう、血のつながりなんて忘れるくらい、二人ともかわいい。
 子供がたくさん増えて、よかった」

本当にいい嫁を貰ったと、俺はそのとき泣いた

こんな嫁ほかにいない。
嫁に先立たれたら俺も死ぬかもしれないw

嫁最高だ!

[コピペ]切ない

2013-08-01_1228

509:おさかなくわえた名無しさん:02/05/14 21:20 ID:RaB5mT5g

親父の仕事の関係で漏れは餓鬼のころから引っ越しばっかりだった。
地方大学に入学し、一人暮らしを始めてから卒業、就職とずっとその
地方の片田舎に住んでいる。もう10年くらいだ。

親戚が亡くなって、葬式のときに5年ぶりくらいで親父に会った。
その晩は親戚で飲んでたが、漏れと親父だけを残してみんな寝てしまった。

親父「仕事はどうだ?」
漏れ「いや、待遇悪すぎてねえ。隙をみて転職するよ。」
親父「首都圏に出てこないのか?仕事先もそっちより豊富だろ。」
漏れ「うーん、気が進まん。」
親父「何だ、女か?」
漏れ「ま、それもあるけど漏れって餓鬼のころからずっと引っ越し続きだったろ?
それで今の所はもう10年なんだけど、今までで1番長く漏れの住んだ土地なんだよね。
友達も結構いるし、付き合いの長い友達って今までずっと欲しかったからねえ・・・」

まあ、単純に面倒だっていうのが最大の理由なんだけど、何気なく言ったそんな
言葉で親父はうつむいて黙り込み、「すまん」とつぶやいた。
そして少し間があいてから「俺のせいだな・・・」とだけ言った。

昔あれほど恐かった親父が、漏れのろくに考えもせず発した言葉でこんなに
シュンとなるなんて・・・
ごめんよ親父。そんなつもりはなかったけど責任感じさせちまったな。許せ。

[コピペ]切ない

26:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/12/14(水) 21:44:57

娘が6歳で死んだ。
ある日突然、風呂に入れている最中意識を失った。

直接の死因は心臓発作なのだが、持病のない子だったので
病院も不審に思ったらしく、俺は警察の事情聴取まで受けた。
葬式には別れた女房が「彼氏」同伴でやって来たが、
もはや俺にはその無神経に腹を立てる気力もなく、機械的にすませた。
初七日も済んで、俺は独りで映画を観にいき、娘が観たがっていた
ゴジラととっとこハム太郎の二本立てを観ることにした。
とっとこぉはしるよハム太郎♪の歌を聴いた瞬間、やっぱり俺は泣いた。
6歳にもなって活舌の悪い娘が、この歌を一生懸命覚えて、
とっとこぉ、はしゆよ、はむたよお♪と歌っていたっけ。
ハム太郎の紙コロジーだってクリスマスに買ってやるつもりだった。
女親のいない家庭だったが、少しでも女の子らしくと、
服を買うときだって、面倒がらずに吟味を重ねた。
学校だって、行きたいところに行かせてやるつもりだったし
成人式には、ちゃんと着物を着せてやるつもりだった。
女房と離婚してから俺は100%子供のために生きることにして、
必死にやってきたのに、この世に神様なんて絶対いないんだと知った。

[コピペ]ほのぼの

98:おさかなくわえた名無しさん:2010/11/02(火) 18:58:22

剣道六段、空手五段、学生時代に柔道で全国大会出場経験あり、ボクシングC級ライセンスを取った事もあり、「趣味は修行」とか言う父(職業は銀行員)。
そんな父に、旦那(当時彼氏)が私との結婚を申し込みにきた時のこと。

父「・・・君は格闘技の経験はあるか?」
旦那「空手で県大会に出た事があります、中学生の時ですけど」
父「空手か。俺は五段だが、俺に勝てるか?」
旦那「ええぇ、えっと・・・」
父「宜しい。母さん、和室片付けてくれ」

母「アンタ何考えてんの!!」
父「俺に勝つ男にしか俺の娘はやらん!」

どこの格闘技漫画かと思った。父は結局、母に

「バカな事言わないの!」

と一喝されて(´・ω・`)ってなってた。
書道八段の母に頭の上がらない父に萌えた。

ちなみに父と旦那、今はよく取っ組み合いしてる。
昨日和室の花瓶倒して、二人して母に正座させられていた。

[コピペ]ほのぼの

137:愛と死の名無しさん :2011/09/15(木) 10:19:05

母が5回の結婚と離婚をしてるため、私には5人の父がいる
実の父は、私がおなかにいるときに女と出て行ったらしく記憶にないけど
2番目の父からは、私のことを可愛がってくれた
離婚理由はすべて母の浮気と借金だったけれど
「俺も○○(私)の父親だ!」と4人とも言ってくれて
大学の学費も4分の1ずつ出してくれた
4人がなぜか仲良くなって私もふくめ5人で食事もよくしていた

で、私の結婚式
バージンロードを誰と歩くかで本当に悩んだ
悩みに悩んで、5メートルずつ一人一人と歩き、最後の2メートルくらいは5人で歩き
4人の新婦父が新郎に娘を託すというパッと見わけわからない式になった

父たちは一人泣き出したらもう止まらず、一人につき5分ぐらい時間がかかった
新郎親族は呆気にとられていたけど、私の親族の複数の祖父母はもらい泣きしていた

そんな式に呼ばれなかった母の不幸

145:愛と死の名無しさん:2011/09/15(木) 12:29:49

母はまた男ができたようです
男を見る目だけはありますが、女としては見習いたくないです

花束贈呈は一人一人にしましたが、これまた時間かかりました。
それぞれ一緒にいた時期が違うので「よちよち歩きだったお前が。。。」
「ランドセル背負ってたお前が。。。」とか
それぞれ泣きながらw

[コピペ]泣ける

640:Trader@Live!:2012/07/24(火) 19:32:59

俺が小さい頃に撮った家族写真が一枚ある。
見た目普通の写真なんだけど、実はその時父が難病(失念)を宣告されていて
それほど持たないだろうと言われ、入院前に今生最後の写真はせめて家族と・・・と撮った写真らしかった。
俺と妹はまだそれを理解できずに無邪気に笑って写っているんだが、
母と祖父、祖母は心なしか固いというか思い詰めた表情で写っている。
当の父はというと、どっしりと腹をくくったと言う感じで、とても穏やかな表情だった。

母がその写真を病床の父に持って行ったんだが、その写真を見せられた父は
特に興味も示さない様子で「その辺に置いといてくれ、気が向いたら見るから」と
ぶっきらぼうだったらしい。母も、それが父にとって最後の写真と言う事で、見たがらないものをあまり
無理強いするのもよくないと思って、そのままベッドのそばに適当にしまっておいた。

しばらくして父が逝き、病院から荷物を引き揚げる時に改めて見つけたその写真は、
まるで大昔からあったようなボロボロさで、家族が写っている部分には父の指紋がびっしり付いていた。

普段もとても物静かで、宣告された時も見た目普段と変わらずに平常だった父だが、
人目のない時、病床でこの写真をどういう気持ちで見ていたんだろうか。

今、お盆になると、その写真を見ながら父の思い出話に華が咲く。
祖父、祖母、母、妹、俺・・・。

その写真の裏側には、もう文字もあまり書けない状態で一生懸命書いたのだろう、
崩れた文字ながら、「本当にありがとう」とサインペンで書いてあった。