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管理人ayu

福岡市在住。エンタメ、ラジオ、音楽、ガジェット好きです。2000年頃から長いことやってます。日々の暮らしを豊かにする何かを探しております。
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[コピペ]いい話,[コピペ]泣ける

67:名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/21(木) 01:24:49

初めてこのすれに書き込む

俺は×1で嫁と結婚した
元嫁との間には息子と娘がいた
離婚理由は元嫁の浮気 だが親権は元嫁に行った
元嫁は間男と結婚し、子供達はそこで暮らしていた

子供達とはたまに会えたが、子供達も今の間男が
一応父親のため、あまり親子の感じはしなかった

嫁も子供も間に奪われ、死んでしまいたくなって
無気力に生きていた俺が現嫁と出会い数年後に結婚

子供を作ったらまた逃げられるような気がして
数年作らなかったが、気持ちも癒えてきたので子供を作った

今嫁との子供はかわいい。
今嫁は子供が出来ても、俺を捨てなかった

これから、頑張ってこの子を育てようと思っていた矢先、
元嫁夫婦が事故で死んだ

68:名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/21(木) 01:29:44

夫婦で買い物に行く途中、トラックに潰されたそうだ
俺にも連絡が来て、慌てて家に行くと、子供達が飛びついてきた
いつも俺の前でクールだった子供二人が、あんなに取り乱すのは初めてだった

葬儀後、話は当然子供二人の面倒を誰が見るかという話になったが、
元嫁も間男も親はホームに入っていてとてもではないが面倒はみれない

親戚も引き取りたくない、と言った。
二人のうち一人なら、という人もいたが、兄弟を引き離すのはかわいそうにも思えた

子供二人は自分たちがこれからどうなるか幼いなりに考えたらしく、俺に言った

「お父さんのところにいきたい」

正直、困った。
俺はもう今嫁と家庭はあるし、赤ん坊も産まれたばかりだ。
だいたい嫁がいい顔をするわけがない。

だが、子供はかわいい。
泣いて一緒に住まわせてくれ、わがままはいわないから、部屋を
貸してくれるだけでいいから、義務教育が終わったらすぐ出て行くから、
という子供達を見捨てたくなかった

69:名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/21(木) 01:33:31

元嫁のところから戻ってきた俺を、今嫁は心配そうに出迎えた
元嫁の浮気で離婚したことも、子供が二人いたことも今嫁は知っている

事故の詳細などを話すと、今嫁はやはり、
「あなたの子供二人はどうなるの」と聞いてきた

観念して話した。
今嫁との生活が大事だった。
子供を引き取るなら離婚だと言われれば、子供には悪いが
今嫁と今の子供をとろうと思うくらいには

だが、今嫁はあっさり「いいよー」といった。
こともなげに。

「まだこの子も赤ん坊だからよくわかんないだろうし、
 逆に今引き取った方がいいよ」

と言ってきた

俺は驚いて、本当にいいのか、いきなり中学生が
二人も増えるんだぞ、おまえの血は入ってないんだ
愛せるのか、大丈夫か、無理をしてないかといった

だが嫁は

「あなたの子供でしょ?なら私の子供だよ。
 あっちが私みたいなお母さんでいいならだけどw」

と言ってくれた

70:名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/21(木) 01:39:41

ものすごく心配だったが、俺は一番望んでいた形だった
そして、子供達を引き取った。

子供二人は最初おびえたり、卑屈になったり反抗期を迎えたりして
今嫁に相当心配もかけたが、本当に今嫁は分け隔てなく育てた
影で暴言を吐いたりすることも愚痴を言うこともなかった

子供二人が大学に行く時、嫁はお祝い会の後、俺に言った

「わたしね、子供三人とも大好きよ。
 上二人は私の血が繋がってないから、正直愛せなかったら
 どうしよう、って不安だった。

 でももう、血のつながりなんて忘れるくらい、二人ともかわいい。
 子供がたくさん増えて、よかった」

本当にいい嫁を貰ったと、俺はそのとき泣いた

こんな嫁ほかにいない。
嫁に先立たれたら俺も死ぬかもしれないw

嫁最高だ!

[コピペ]切ない,[コピペ]泣ける

アフリカ

88:名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/27(水) 20:14:51.77

やっぱり一人になった奴いっぱい居るんだな。安心できた気がする。

あの時、地震が来てすぐ妻と娘に会えば良かった。
あの時、東北への転勤を何としてでも止めておけば良かった。
あの時、マンションに住んでおけば良かった。
新築だと張り切っていたあの時は何だったのだろう。
東北なら食い物がうまいと喜んでいた自分は何だったのだろう。

できることなら自分も死んでしまいたい。
できることなら地震の前に戻って妻子を助けたい。

もう俺は生きる価値など無いんだろうかとふと思ってしまう

[コピペ]泣ける

2:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/23(金) 22:26:29

6歳の娘がクリスマスの数日前から欲しいものを手紙に書いて窓際に置いておいたから、
早速何が欲しいのかなぁと夫とキティちゃんの便箋を破らないようにして手紙を覗いてみたら、
こう書いてあった。

「サンタさんへ おとうさんのガンがなおるくすりをください! おねがいします」

夫と顔を見合わせて苦笑いしたけれど、私だんだん悲しくなって少しメソメソしてしちゃったよw

昨日の夜、娘が眠ったあと、夫は娘が好きなプリキュアのキャラクター人形と
「ガンがなおるおくすり」と普通の粉薬の袋に書いたものを置いておいた。

朝、娘が起きるとプリキュアの人形もだけれど、それ以上に薬を喜んで「ギャーっ!」って嬉しい叫びを上げてた。

早速朝食を食べる夫の元にどたばたと行って

「ねえ! サンタさんからお父さんのガンが治る薬貰ったの! 早く飲んでみて!」

っていって、夫に薬を飲ませた。

夫が「お! 体の調子が、だんだんと良くなってきたみたいだ」と言うと娘が、

「ああ! 良かった~。これでお父さんとまた、山にハイキングに行ったり、
動物園に行ったり、運動会に参加したりできるね~」

……っていうと夫がだんだんと顔を悲しく歪めて、
それから声を押し殺すようにして「ぐっ、ぐうっ」って泣き始めた。

私も貰い泣きしそうになったけれどなんとか泣かないように鍋の味噌汁をオタマで掬って無理やり飲み込んで態勢を整えた。

夫は娘には「薬の効き目で涙が出てるんだ」と言い訳をしてた。

その後、娘が近所の子に家にプリキュアの人形を持って遊びに行った後、夫が

「来年はお前がサンタさんだな……。しっかり頼むぞ」

と言ったので、つい私の涙腺が緩んで、わあわあ泣き続けた。

お椀の味噌汁に涙がいくつも混ざった

[コピペ]泣ける,2ch

はい。コピペです。実は僕も今年結婚10周年(!)なので間違わないように【コピペ】入れました。

我が家の嫁K子さんはピンピンしていますので念の為w

9:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/21(金) 21:54:30.46 ID:9crgUvhY0

うっそぴょーーーーん!!!!!!!!!!!!!
嫁なんか死んでないし2階でおれなんかほったらかしで韓国のドラマ見てる!!
愛犬と一緒に寝ながらお前らが大嫌いな韓国ドラマ見ながらお茶飲んで寝てるわwwww

お前らしょうがねえからIDで腹筋でもしてろよwwwwwwwwwwwww

と言いたいところだがな・・・・・・参ってる。正直まいってる。

14:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/21(金) 21:56:34.62 ID:a0dkCB3Y0

まぁ話せよ

26:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/21(金) 22:00:10.25 ID:9crgUvhY0

スペック
俺34
身長180
体重70
イケメン
会社役員

嫁35
身長160
体重45ぐらい
かわいい。貧乳。梨花を可愛くしてメガネかけたカンジ。

35:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/21(金) 22:06:44.82 ID:9crgUvhY0

まあ何だか色んな病院を経て、「子宮肉腫」という病気だそうだ。

「ガン」

とにかく「すぐに入院の手続きをとりましょう」ってなた。

二人とも「まじか」「おーまじか」ってなった。

43:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/21(金) 22:11:55.15 ID:9crgUvhY0

速攻で入院する羽目になった。
家に帰る間、お互い色々とヤバいなってことを自覚しつつ
「やべえな」「さてどうすっか」みたいな事言い合ってた。

家事がどうのとか、嫁の仕事を誰に引き継ぐかとか(職場は一緒)

とにかくお互い身辺整理からすでに始まってた。

タイトルどおりのスレです。苦手な方は読まずに飛ばして下さいね。

詳細は以下より

[コピペ]泣ける

640:Trader@Live!:2012/07/24(火) 19:32:59

俺が小さい頃に撮った家族写真が一枚ある。
見た目普通の写真なんだけど、実はその時父が難病(失念)を宣告されていて
それほど持たないだろうと言われ、入院前に今生最後の写真はせめて家族と・・・と撮った写真らしかった。
俺と妹はまだそれを理解できずに無邪気に笑って写っているんだが、
母と祖父、祖母は心なしか固いというか思い詰めた表情で写っている。
当の父はというと、どっしりと腹をくくったと言う感じで、とても穏やかな表情だった。

母がその写真を病床の父に持って行ったんだが、その写真を見せられた父は
特に興味も示さない様子で「その辺に置いといてくれ、気が向いたら見るから」と
ぶっきらぼうだったらしい。母も、それが父にとって最後の写真と言う事で、見たがらないものをあまり
無理強いするのもよくないと思って、そのままベッドのそばに適当にしまっておいた。

しばらくして父が逝き、病院から荷物を引き揚げる時に改めて見つけたその写真は、
まるで大昔からあったようなボロボロさで、家族が写っている部分には父の指紋がびっしり付いていた。

普段もとても物静かで、宣告された時も見た目普段と変わらずに平常だった父だが、
人目のない時、病床でこの写真をどういう気持ちで見ていたんだろうか。

今、お盆になると、その写真を見ながら父の思い出話に華が咲く。
祖父、祖母、母、妹、俺・・・。

その写真の裏側には、もう文字もあまり書けない状態で一生懸命書いたのだろう、
崩れた文字ながら、「本当にありがとう」とサインペンで書いてあった。

[コピペ]泣ける

65:先駆けタンバリンだじぇお ◆DAjeOPNM.Q :2010/11/19(金) 01:57:16

この間の友人(新郎の方)の結婚披露宴。
タイムスケジュールも最後の方、新婦の父親のスピーチ。

「明子。明子が生まれてすぐ、お前のお母さんは病気で亡くなりました。
 お前は母の顔は写真でしか知りません。母親の声も知りません。
 母の愛情も知りません。片親でつらい思いもしただろう。
 それでも父の私に文句一ついう事も無く、明るくて素直で思いやりのある子に育ってくれた。
 本当に手がかからない子だったし、よく家事もやってくれた。
 相手にも恵まれて、幸せになってくれてお母さんも喜んでくれてると思う。
 
 最後にお前に謝ることがある。

 明子に25年間隠していたものがある。
 いつか嫁に行くときに見せてあげようと思ってずっと取っておいた物だ。」

・・・そして古ぼけたブリキみたいな箱からとりだした1本のビデオテープ。
会場のセットで再生・・会場ザワザワ・・・

そこにはベットの上で笑顔で赤ちゃんを手にする母親の姿。
そう25年前の新婦と母親。

母親の笑顔のなんと神々しい事。まさに聖母の如く・・

はじめて見る母親の姿に新婦どころか全員が嗚咽だったよ。
とくに新婦はもう見ていられなかった。

そしてしてやったりの新婦の父。あの人だけは泣く事もなく、淡々としてたんだよなあ。
そこがまた泣けるんだけど。

[コピペ]泣ける

747:名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 04:35:26.24

私のかみさんは、四年前に死んだ。夜中の爺のたわごとです。
50年連れ添ったのに、息子を三人も産んでくれたのに、
私は何もしてやれなかった。
それぞれ、皆、もう中年のおじさんだけど、君に似ていい男になったよ。

君と結婚した時、こんな美人が私についてきてくれるなんて夢心地だった。
身体が弱いのに、上の子二人は双子だから、
君の命か子供の命で迷ったのに、産みたいって言ったね。

もう46年前だけど、内心君が死んだらどうしようとはらはらしてたんだ。

長男の子は高校に行ってるよ。君の料理を喜んでくれたな。
次男は大きいホールでコンサートして、格好よかった。
三男は働き者だ。
こんな形見を遺してくれたのに、四年もたつのに、まだ苦しいよ。

年だから余計さみしいんだよ。
君のようにきちんと家事もできない。
毎日泣いてるんだよ。
子供たちとも離れて住んでいるから毎日会えないし、
一人で住むには家が広すぎる。さみしい。

お迎えが来たら、会いにきてくれるかい?私は今も君が一番好きなんだよ。

爺の役目はもうすぐ終わり。
また新婚の時みたいな暮らしが、あの世でできたらいいな。

初めて弱音をはきました。
若い人に比べれば、爺の話は大したことがないね。情けない。

[コピペ]泣ける

450:名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 10:59:13

親父の話。
高校1年の夏休み、両親から「大事な話がある。」と居間に呼び出されたんだ。
親父が癌で、もう手術では治りきらない状態であると。
暑さとショックで、頭がボーっとしてて、変な汗が出たのを憶えている。
当時、うちは商売をしていて、借金も沢山あった。
親父が死んだら、高校に通えるわけがないことは明白だった。
そして俺はお世辞にも優秀とはいえなかった。クラスでも下位5番には入ってしまう成績だった。
その夏から、親父は、抗がん剤治療を開始し、入退院を繰り返していった。
メタボ体型だった親父が、みるみる痩せこけていった。
母親の話では、主治医の見立てでは、もって1-2年だろう、ということだった。
ただ、親父は弱音を吐くことはなかった。
親父は「高校、大学はなんとかしてやるから、しっかり勉強しろよ」って言ってたよ。
仕事もやりながら、闘病生活を続けていた。

451:名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 11:01:09

俺といえば、目標も特になく、高校中退が頭にチラついて勉強は進まなかった。
ただ、ボーっと机に向かって、勉強するフリだけはしていた。
せめて親父を安心させるためだったと思う。
だから、その後の成績も、とても期待に添えるものではなかった。
ただ、親父の「高校、大学はなんとかしてやる」の言葉が、重かった。
「おまえ、将来、何かやりたいことはないのか?」
高校2年の冬、痩せこけた親父に問いかけられた。
俺は、期末テストで学年ビリから2番をとり、担任からも進路について厳しい話をされていた。
言葉もない俺に、怒ったような泣いたような顔で親父は言った。
「・・・ないなら、、医者になれ! ・・・勉強して、医者になって、おれの病気を治してくれ!」

452:名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 11:02:52

上手く説明できない熱い感情に、頭をガツンと打たれた。
自分への情けなさとか、怒りとか、色々混じったものが込み上げた。
その時、親父には返事を返すことはできなかったが、俺は決意した。
それから、猛烈に我武者羅に勉強した。
高校3年の夏、親父は逝った。
親父は、闘病生活の2年間で借金を整理し、俺の高校の学費をなんとか工面したそうだ。
親父のおかげで、高校卒業できた。
そしてありがたいことに、1年間の浪人生活を経て、俺は地方の国立大学の医学部に合格した。
俺は今、癌専門治療医として働いている。
親父は、「あいつは、将来おれの病気を治してくれるんだ」と母に言ってたそうだ。
まだ、親父の癌を治す力はないが、日夜頑張っているよ。
いつか、親父の癌を治せるように。

[コピペ]泣ける

668:名無しさん@HOME:2011/12/19(月) 20:56:56


書き捨てさせて。

結婚当初、姑と上手く噛み合わなくて、会うと気疲れしていた。
意地悪されたりはしなかったけど、気さくで良く大声で笑う実母に比べ
足を悪くするまでずっと看護士として働いていた姑は、喜怒哀楽を直接表現せず
シャキシャキ・パキパキ黙々って感じで、ついこっちも身構えてしまっていた。
何となく「私、あまり好かれてないな」と思う時も有って、当たり障りなくつき合っていた。

その年は、私が秋に二人目を出産した事もあり、混雑を避けて一月中旬に帰省する事になった。
そして早朝、今まで感じたことの無い揺れと衝撃を感じた。阪神淡路大震災だった。
朝釣りに行くという夫達の為に、お弁当と朝食を作っていた私と姑は立っていること出来ずに座り込んだ。
食器棚が空いて、次々と皿やグラスが降ってきた。
名前を呼ばれた気がして目を開けると、姑が私に覆い被さっていた。
私を抱きしめる腕も肩も頭も血が出ていた。
夫と舅が子供達を抱いて台所に飛び込んできて、私達を廊下に連れだしてくれた。
歪んでなかなか開かない玄関ドアを開けると、街の景色は一変していた。
義実家はマンションの高層階だったが、エレベーターは止まり、階段にはヒビが入っていた。
呆然とする間にも、大きな余震が襲ってきた。
廊下の壁にも大きな亀裂が入り、揺れが襲う度に何かガラガラと大きな物が落ちていく音がした。
姑が「あなた達は早く逃げなさい!」と部屋に戻り皆の上着やマフラーを持ってきた。
泣きながら「あなた達って・・・お義母さんは?」と聞くと「後で逃げるから、良いから早く!」と恐い顔で言われた。
足が悪くて階段では逃げられない自分は、足手まといになると思っているんだと分かった。
夫が「母親を見捨てて逃げたら、俺はもう子供達に顔向けできない」と姑を背負おうとしたら
姑が夫をひっぱたいた「あんたの守るのは子供と嫁!産後で完全じゃない嫁を幼子二人を守ることだけ考えなさい!」
そして血だらけの手で、私の髪を撫でて「ごめんね。帰省させなきゃ良かったね。ゴメンね」と笑った。

結局舅が姑を連れて、後から逃げると説得され、私達夫婦は子供二人と先に階段を下りました。
避難所で無事に再会出来たときは、安堵のあまり「おうおうおう」と言葉にならない声で抱きついて泣いた。
マンションは数日後に全壊した。
避難所で再会して気が付いたが、姑は家族の上着を持って来てくれたが自分はセーターにエプロンという服装だった。
初めから、皆だけ逃がすつもりだったんだと思ったら、また泣いた。
未曾有の事態に母乳が出なくなったり、出ても詰まったり色が変だったりで
痛くて脂汗を流しながら、マッサージをしていると、産婦人科にいた事もある姑が
「熱を持ってるね。痛いね。でも出さないともっと痛いから。代わってあげられなくてゴメンね」と泣きながらマッサージを手伝ってくれた。
避難所では「ブランクがあって、知識が古いけど」と看護士として働いて、まわりを元気づけていた。

あの時、赤ん坊だった下の子はもう高校生で、舅は既に他界した。
福島の震災をみていると、どうしても阪神地震を思い出してしまう。
同居の姑は、今も喜怒哀楽をあまり出さないけど、今では何を考えているかちゃんと分かる。
ありがとう、おかあさん。あの時の血だらけの貴方を忘れません。

[コピペ]泣ける

422:1/2:008/10/31(金) 17:15:22

いとこ(27歳男)が、大腸がんで死んだ。
その彼女は、従兄弟ががんと分かってから、仕事もあったのに
毎日病室に訪れ付き添った。結婚の約束もしていたんじゃないかな。
食べ物を、「お口アーン」とか、やり合ってじゃれてたり、
がんが侵食して痛む従兄弟の腰や背中を、彼女がさすってあげたり。
そのころ、10代のガキだったせいもあるけど、従兄弟が死ぬなんて
まったく想像つかなかった。「きっとこの2人はあと数年もしたら結婚
して、幸せな家庭築くんだろーな」なんて、見舞いにいくたび
幸せな想像しかできなかった。普通にうらやましかった。

しかし、従兄弟の病状はどんどん進んでいった。みるみるやせて、
目ばかりぎょろぎょろになって、身内のわたしでも正視できなかった。
はやく終わってほしかった。人の命のもろさが怖かった。
でも彼女はずっとそばにいた。従兄弟のやせ細った手を握って、
抗がん剤の影響で、ぼろぼろに禿げたあたまにかぶる毛糸の帽子を
作ったり。わたしは、怖くて怖くて病室にも入るのもいやで
病室に入っても、 彼女の後姿ばかり見ていた気がする。
従兄弟は、癌がよくなったらどこかへいこうとか、あれ食べに行こうとか
今度の携帯の最新機種を買いたいとか、来ない日のことばかりしゃべった。

彼女は笑顔で、「絶対いこーね」「わたしあれ食べたい」とか、いってた。
気休めだろって思ったけど、彼女の目は本気だった。
今、思い返せば、彼女はほかにどうすることもできなかったんだと思った。
彼女も怖かったのに、好きな人を失うことが、
きっと自分が死ぬ以上に恐ろしかったと思う。

424:2/2:2008/10/31(金) 17:19:00

年末に、癌が全身にまわり、肺に転移。
従兄弟は最初の意識不明に陥った。
医師は、「癌を抑える薬がある。しかし、一時的に抑える効果しかない。
苦しみがのびるだけ。私の子供が患者だったらこのまま死なせる」ときっぱり。
両親は、「せめて27歳の誕生日を迎えさせたい」と延命を望んだ。
横で、彼女はだまって、ふるえていた。
薬は効いて従兄弟は劇的に回復した。
彼女と温泉にいったり、近場に旅行いったり、
新薬は2人に時間をくれた。
「癌が治った」とはしゃいでいたけど、一時的だというのは
本人が何よりも知っていたと思う。
最後のときをすごす2人に、両親も親戚もなにもいわず見守った。

春、従兄弟が3度目の意識不明に陥った。
あまりの痛みに子供のように泣き叫ぶ従兄弟を、彼女と従兄弟の母親が
押さえつけ、抱きしめた。「ここにいるよ。ひとりじゃないよ」
彼女は、死の激痛にあえぐ従兄弟の顔にキスして、手足をさすった。
医師が死亡宣告し、遺体が自宅に搬送されるまで、
彼女は従兄弟を抱いた。
何かにとりつかれたように嗚咽する彼女をみて
「人を愛する」ってこういうことかと思った。

彼女は、親戚の手前、通夜、葬式にも出られなかった。
毎年、従兄弟の墓参りには来ていた。
従兄弟が死んで数ヶ月あと、勤めていた会社をやめたことを聞いた。

数年たって、墓参りにもこなくなった。
最近、彼女が結婚し、1児の母になったことを聞いた。
寂しく思った反面、ほっとした。幸せになってほしいと思う。