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144:名無しの心子知らず:2007/01/21(日) 03:45:56

6歳の娘がいます。

昨年の夏に第二子を妊娠しましたが
10月に流産してしまいました。

あまりに突然だった為、手術の日まで実感がなく
夢なんじゃないかと思っていました。

手術が終わって次の日
娘が熱心にお絵かきをしてました。
いつもは飽きてすぐやめてしまうのに。
出来上がると私の所に駆け寄ってきて

「これ!赤ちゃんにかいたよ!」と。

見ると拙い字で

「あかちゃんまたきてね」

言葉が出なかった。

涙が溢れて仕方なかった。

子供の前だというのに大泣きしてました。

この子を産んで本当に良かったと
心から娘に感謝をしながら、抱きしめて泣きました。

本当に嬉しかった。

私の子供になってくれてありがとう。

生まれ変わっても

ママはまたあなたを産みたいと思うよ

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90 番組の途中ですが名無しです 投稿日:2006/08/09(水) 01:36:41

私の祖父は無口で頑固で本当にこわくて
親戚中が一目置いている人でした。
家に行ってもいつもお酒を飲んでいて
その横で祖母がせわしなく動いていた記憶があります。

私が結婚する事になり、ドキドキしながら主人を連れて行くと
ずっと黙ったままやっと口を開くと

「ビールは何を飲むんや?」

でした。
その日はなんとか無事に終わり、式の当日終始酒をつぎにまわってた。
その後、子供が生まれ少し育児ノイローゼ気味になった私を見て
なぜか毎日孫の世話をしに来るようになった。
当然子供の面倒など見たことないので、する事がめちゃくちゃで
イライラしていた私は嫌味ばかり言ってしまった。

2ヵ月後、あまり調子がよくないと言っていた矢先他界した。
なんでもっと優しくしてあげなかったんだろう?
紙オムツの仕方を聞かれて、それぐらいわかるでしょって
なんで冷たく言っちゃったんだろう?

あの日、自分でどうにかしようと思って変な形になったオムツが
残されてた・・・

その後、毎日つけていた日記が見つかり、式の当日

「あのバカ娘がとうとう嫁に行った。最後の挨拶では涙が出た。
幸せになれ。」

って書いてた。

おまけに家には主人があの日答えた「アサヒビール」が
押入れいっぱい詰められていた。

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88 番組の途中ですが名無しです 投稿日:2006/08/09(水) 01:34:31 ID:1QAlKNBb0

去年3月に定年を迎えた父に兄と私で携帯電話をプレゼント。
退職前は携帯などいらんと言っていたがうれしそうだった。
使い方に悪戦苦闘の父に一通り教えてまずメールを送ったが返事はこなかった。
その6月に脳出血で孫の顔も見ずに突然の死。
40年働き続けてホッとしたのはたったの2ヶ月。
葬式後父の携帯に未送信のこのメールを発見した。
最初で最期の私宛のメール。私は泣きながら送信ボタンを押した。
私の一生の保護メールです。

「お前からのメールがやっと見られた。
返事に何日もかかっている。
お父さんは4月からは毎日が日曜日だ。
孫が生まれたら毎日子守してやる。」

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240:おさかなくわえた名無しさん:2007/04/08(日) 18:42:24 ID:jaHrNQ5G

当方27才の男。
親父は家族で会話していても、いつも黙ってタバコを吸っている。
中学・高校の頃から、なんだかあまり子供のことに興味はなさそうな感じ。
「自分たちの好きなようにやればいい」が口癖。
俺が結婚を決めた時、やはり「勝手に自分たちで決めたらいい」と言っていた親父。
やはり放置プレイ。

そんなこんなで、こないだ簡単に結納をして、両家が初めて顔を合わせた。
初対面ということと、普段行かないような立派なホテルで誰もが緊張していた。

そんな中、親父が相手の親父さんに言った。
「お父さん、少し私からよろしいでしょうか?」
堂々と家族の紹介をする親父。
緊張して焦っている様子もない。
いつも黙ってタバコを吸っているイメージしかなかった親父が…。
すごく頼もしく、また親父の偉大さを痛感して、少し涙が出そうになった。

最後にこんな感じに締めくくった。
「我が家は決して、誰もがうらやむような裕福な家庭ではないと思います。
でも、子供達には何が正しくて何が間違っているかということは、きちんと教育してきたつもりです。
○○(俺の名前)も、社会の中で決して恥ずかしくない人間だと思っています。
ですので、必ず●●さん(妻の名前)と後ろ指を指されることのない、幸せな家庭を築けると信じています。
両家がこうしてつながりをもてるようになったこと、非常にうれしく思っています。
どうか、これからも末永くよろしくお願いします。」

いつもの「自分で好きなようにすればいい」と言っている親父。
でもどこかで子供のことを見守っていて、子供のことを信じて居るんだな。
親父には一生勝てない気がする。父親は偉大だと思った。

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日曜に、ミスド行った時の話。若いお父さんと3歳くらいの、目がくりくりした可愛い子が席についた。
お父さんと私は背中合わせ。以下、肩越しに聞いた会話(ちょっとうろ覚え)

子「どーなつ、おいしいねぇ」
父「ん、おいしいね」
子「おかーちゃんにも、あげたいねぇ」
父「そだね」
子「おかーちゃん、いつおっき?」
父「んー、お母ちゃんはとっても疲れてるから。いつ起きるか分かんないな」
子「そっかあ」

子「○○(自分の名前)、ゆーえんち!」
父「ん?」
子「ゆーえんちいって、かんらんしゃ!おかーちゃんいっしょ!」
父「そだね。お母ちゃんと行きたいね、三人で。お母ちゃんがおっきしたら・・・」

子「おとーちゃん?だいじょうぶ?えーんえーん?」
父「大丈夫。えーんえーんしてないよ。お父ちゃんは大丈夫だから」

もう涙堪えるのに必死でした。
この親子になにがあったのかは推し量ることしかできませんが、
やさしいぼくちゃんと、まだ若いお父さんに幸あれ。

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625 :本当にあった怖い名無し :2006/08/08(火) 18:49:54 ID:gxEvaWAe0
私が幼稚園のときに亡くなったお母さん。

当時ひらがなを覚えたての私が読めるように、
ひらがなオンリーの手紙を遺してくれた。

みいちゃんが
おかあさんのおなかにやってきてくれたあのひからずっと
おかあさんは せかいでいちばんのしあわせを
みいちゃんからもらっています。

おかあさんのだいすきなだいすきな だいじなだいじな みいちゃん。

こんどはみいちゃんが せかいでいちばんしあわせになってね。

お母さん、私、この秋に結婚するよ。
世界で一番幸せになるよ。

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268:名無しの心子知らず:2007/01/22(月) 14:09:10

7ヶ月前に妻が他界して初めての、娘の4歳の誕生日。
今日は休みを取って朝から娘と二人妻の墓参りに出かけてきた。
 

 
 
妻の死後しばらくはあんなに

「ままにあいたい」
「ままかえってこないの」

と毎日泣いていた娘が、先週あたりからぱったりと泣かなくなった。

さっき墓前で

「4歳になったからね、
 もうおねえさんだから泣かないよ、ばあばと約束したんだ」

と私に打ち明けてくれた。

そして、小高い丘の上にある墓地から空に向かって

「ままーっ!いつでも帰ってきてねぇ!!」

と叫んだ。

けなげな姿が涙でゆがんだ。

いま、隣で昼寝している娘の寝顔を見ながらパソコンにむかっている。
もともとここをのぞいていたのは妻のほうで、入院中によくみていたようだ。

「私も何か書き込もうかな」

そう笑っていた数日後に亡くなった。
それから、半年以上が過ぎ、今日ふとここを思い出したのだ。

妻よ、きみと俺の愛する娘は今日4歳になったよ。
日々とても愛らしい子どもに成長している。
だから心配しないで見守っていて欲しい。

スレ違いかもしれません。
すみませんでした。

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203:癒されたい名無しさん:2004/11/21 21:51:33

小学生のとき、足し算、引き算の計算や、会話のテンポが少し遅いA君がいた。
でも、絵が上手な子だった。
彼は、よく空の絵を描いた。
抜けるような色遣いには、子供心に驚嘆した。

担任のN先生は算数の時間、解けないと分かっているのに答えをその子に聞く。
冷や汗をかきながら、指を使って、ええと・ええと・と答えを出そうとする姿を周りの子供は笑う。
N先生は答えが出るまで、しつこく何度も言わせた。
私はN先生が大嫌いだった。

クラスもいつしか代わり、私たちが小学6年生になる前、N先生は違う学校へ転任することになったので、
全校集会で先生のお別れ会をやることになった。
生徒代表でお別れの言葉を言う人が必要になった。
先生に一番世話をやかせたのだから、A君が言え、と言い出したお馬鹿さんがいた。
お別れ会で一人立たされて、どもる姿を期待したのだ。

私は、A君の言葉を忘れない。

「ぼくを、普通の子と一緒に勉強させてくれて、ありがとうございました」

A君の感謝の言葉は10分以上にも及ぶ。
水彩絵の具の色の使い方を教えてくれたこと。
放課後つきっきりでそろばんを勉強させてくれたこと。
その間、おしゃべりをする子供はいませんでした。
N先生がぶるぶる震えながら、嗚咽をくいしばる声が、体育館に響いただけでした。

昨日、デパートのポストカードなどに美しい水彩画と、A君のサインを発見いたしました。

N先生は今、僻地で小学校で校長先生をしております。
先生は教員が少なく、子供達が家から2時間ほどかけて登校しなければならないような
過疎地へ自ら望んで赴任されました。

N先生のお家には、毎年夏にA君から絵が届くそうです。
A君はその後公立中高を経て、美大に進学しました。
お別れ会でのN先生の挨拶が思い浮かびます。

「A君の絵は、ユトリロの絵に似ているんですよ。
 みんなはもしかしたら、 見たこと無いかもしれない。
 ユトリロっていう、フランスの人でね、街や 風景をたくさん描いた人なんだけど。
 空が、綺麗なんだよ。

 A君は、その才能の代わりに、他の持ち物がみんなと比べて少ない。
 だけど、決して取り戻せない物ではないのです。
 そして、A君は それを一生懸命自分のものにしようしています。
 これは、簡単なことじゃありません!」

A君は、空を描いた絵を送るそうです。
その空はN先生が作り方を教えた、
美しいエメラルドグリーンだそうです。

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16 :電力会社勤務(天竜市) :2007/03/15(木) 06:00:06 ID:Oz54U5yQO

私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、
母の作る弁当はお世辞にも華やかとは言えないほど質素で見映えの悪い物ばかりだった。
友達に見られるのが恥ずかしくて、毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。
ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の大好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。
私は生返事でそのまま学校へ行き、こっそり中身を確認した。
すると確かに海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし、彩りも悪いし、
とても食べられなかった。
家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこく尋ねてきた。
私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜っていたので
「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」とついきつく言ってしまった。
母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らなくなった。
それから半年後、母は死んだ。私の知らない病気だった。母の遺品を整理していたら、日記が出てきた。
中を見ると弁当のことばかり書いていた。
「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」 日記はあの日で終わっていた。
後悔で涙がこぼれた