/* THKアクセス解析 */
管理人ayu

福岡市在住。エンタメ、ラジオ、音楽、ガジェット好きです。2000年頃から長いことやってます。日々の暮らしを豊かにする何かを探しております。
SNSでは毎日なにかしらのオススメを更新しております。どうぞ宜しくお願い致します。
詳細な自己紹介 → このサイトについて
はじめての方にオススメ → 今月の人気記事一覧

twitter  instagram

[コピペ]泣ける

38 :名無しのオプ :2010/07/22(木) 20:45:37

妻には出張と偽って、明日花との思い出の場所を訪れた。
今や私にとって妻以上にかけがえのない存在となっている明日花。
しかし、彼女の苦しみの大元が私自身だという思いから、私は常々身を引き裂かれるような気持ちでいた。
もちろん世間体もあり、妻の前ではそのようなことはおくびにも出さず平静を装っていたが、
妻はもともとあまり感情が表に出るタイプではないので、私の心情に気付いていたかどうかはわからない。
しかし時折妻が、暗い悲しい目で私を見ることがあった。
とにかく私は明日花を愛するあまり、自分を見失っていた。
いっそこの地で海に身を投げ、今の苦しみから逃避しようかとさえ思った。
しかしそんな考えを遠くに押しやってくれたのは、やはり明日花の笑顔だった。

ある日、私のオフィスに明日花から手紙が来た。
彼女自身、私のせいで苦しみの中にあるというのに、いつもと変わらぬ無邪気な文面であった。
その手紙のなかで彼女は、私のことを好きと言ってくれていた。
そしてまたいつかいろいろな場所に連れて行ってほしいと綴られていた。
しかし私は、この天真爛漫な手紙の中に、彼女のさよならの挨拶を感じた。
遠からず別れの時が来るであろうことは、明日花自身が一番よくわかっていたのかも知れない。
私はこの手紙を読んで号泣した。そして決心した。
世間体がどうのと自分の心を偽ることはもう止めよう。
堂々と正面から明日花と向き合い、妻にも自分の気持ちを素直にうち明けよう。
そして全身全霊を込めて明日花を愛そうと心に誓った。

わが最愛の娘明日花が、わずか9歳という短い生涯を終えたのはそれから間もなくのことだった。
重い先天的傷害を抱え3年も生きられないだろうと言われていた明日花が、
その3倍の9年も生きたということはまさに奇跡だったと言うべきなのかも知れない。
自分の若い頃の放蕩が明日花の小さな体に顕れてしまったのだという思いが今もあるが、
明日花が拙い文字で手紙に「パパ大好き」と書いてくれたことで幾分救われた気がする。
いつもは感情を表に表さない妻も、明日花が息を引き取ったときは人目もはばからず泣いた。
生まれたばかりの娘に希望を込めて「明日の花=アスカ」と名付けたのは妻だ

[コピペ]泣ける

46 :おさかなくわえた名無しさん 投稿日:2010/08/23(月) 19:59:55

腹が減ったと泣けば弁当や菓子パンを食わせてくれた
電気がつかない真っ暗な夜、ずっと歌を歌って励ましてくれた
寒くてこごえていれば、ありったけの毛布や服をかぶせてくれた
何人もの男が怒号をあげて部屋に入ってきたときは、
押し入れに隠してかばってくれた

兄ちゃんは俺の神様で、ヒーローだった
いつだって体を張って俺を守ってくれてた
だから2人きりでもいつだって安心できた
だから全然気付かなかった
ごめんなさい
ごめんなさい

47 :おさかなくわえた名無しさん 投稿日:2010/08/23(月) 20:00:10

俺に食わすために毎日万引きしてたんだってな
父ちゃんと母ちゃんがお金送ってくれたとか全部うそだったんだな
2人とも借金でどうしようもなくなったあげく俺たちを置き去りにして消えちゃって
でも借金取りの追跡が怖くて
「すぐに帰ってくるから、いないことは誰にも言うな」なんて言い残したもんだから
兄ちゃん誰にも助けを求められなかったんだってな
泣きわめく俺を抱えてどんなに怖かったか不安だったか
だけど見捨てもせず、怒りもせず最後まで面倒見てくれたんだな

結局兄ちゃんが万引きで捕まって、家に警察が来て
呼び出された親戚は兄ちゃんを怒ったけど
たとえほめられた方法じゃなくても
親との約束を守って俺を守った兄ちゃんはかっこよかったって今でも思ってる
それから1週間くらい後だったかな
兄ちゃんが父方、俺が母方の親戚に引き取られた日が
兄ちゃんを見た最後だった
今どこにいるんだよ
元気でやってるのか
会いたいよ、会ってありがとうって言いたいよ
大好きだって言いたいよ
普通の兄弟みたいに遊んだり喧嘩したりしたいよ
あのころは大変だったな、なんてかっこつけて語る兄貴の武勇伝聞いて笑いたいよ
いつか会えるよな、絶対

[コピペ]泣ける

247 : 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2008/12/20(土) 06:08:50

両親は俺が中2の時、交通事故で死んだ。

俺には4つ上の兄と5つ下の妹がいる。

両親の死後、俺は母方の親戚に、妹は父方にひきとられて、
兄は母方の祖父母と住んでいた。

それから一年くらいたって、久しぶりに兄から電話があった。
そん時、高校を卒業して就職が見つかったから、兄弟3人で暮らさないかという旨を言われた。

俺はびっくりした。
兄は俺とは違い昔から頭が良くて、当然1流の大学に行くんだろうと思ってたからだ。

俺は兄に大学はいいのか?と聞いたが、兄は
「全滅やったから(笑)そこは触れんといて」なんて事を言ってた。

俺は中3だし、妹はまだ小3だったため当然、親戚中は反対してたが、
俺も妹も、ホントはまた兄弟一緒に暮らしたいと思ってたから
頼み込んで許してもらい、晴れて兄弟3人一緒に住むことができるようになった。

それからというもの、兄は俺らの為に働きまくった。俺らが貧乏なんて感じることないようにと、
ずっと皆一緒に暮らすんだと、昼と夜も別々の仕事して稼ぎまくって俺らに小遣いまでくれてた。
そんな兄が先月、交通事故で逝ってしまった・・・

葬式で俺も妹も泣きじゃくった。。
葬式も一通り片付き皆が帰った後、別室にいた俺と妹のところに、
叔母が夕飯をもってきてくれて、その際、俺らは兄について衝撃の事実をしることになった。

両親の死後、兄が親戚中に土下座し、俺と妹の事よろしく頼むと言ってまわってたこと。
兄がバイト代を毎月送り、俺と妹の小遣いにしてやってくれと頼んでたこと。
京大を蹴って、俺らと一緒に住むために就職したこと。

・・・それきいた途端、もう分からんくらい泣いた。立てんかった・・・
色んな兄ちゃんとの思い出が駆け巡った。
小さい頃、俺の手をつないで、いっつも遊んでくれた・・・
強くておもろくてやさしかった・・・
自分の小遣いからお菓子買ってくれてた・・・
俺が高校行かんって言ったらぶち切れて殴ってでも行かせるって言った・・・
いつもボロボロで疲れてても、俺らに八つ当たりなんてしなかった・・・
自分の夢を捨てて、俺らのために必死やった・・・
おとん、おかんが死んだ時、泣きじゃくる俺と妹を抱いて、
がんばれって言って俺らの前では涙ひとつ見せんかった・・・
俺ホントは兄ちゃんが夜中、泣き声をおしころして泣いてたの知ってたよ・・・

やべえ思い出して・・・もうこれ以上書けねえわ
何もできんかったわ・・・
ホントなんも・・・

最後に言わせて。
最強最高の兄ちゃん!!!あんたに負けんこと俺がんばるけん!
妹のことも心配せんでいいけんね。ありがとう。ありがとう!!!

[コピペ]ほのぼの

39 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 :2008/05/06(火) 12:25:10

大学受験まっただ中の冬休み、シャーペンの芯が無くなった俺は、
春に嫁に行ったねーちゃんの部屋の机を漁っていた。
ねーちゃんのシャーペンの芯はBだった。
「そういえば、旦那も濃い顔してたな」とか思いながら、
シャーペンの芯と、メモ代わりに使えそうなレポート用紙を持ち出して、俺はまた勉強を始めた。
あれは夜中の2時頃だっただろうか、英語のリスニングの為に予備校で売りつけられたぼったくりCDをデッキにセットし、
ねーちゃんの部屋から持ち出したレポート用紙を開く。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
裕太(俺)へ
何だか気恥ずかしくて、あんたには何も言えずにお嫁に行くので、
いつかあんたが見付ければいいかと思って書いておきます。
小さい頃、泣き虫でお姉ちゃんの後ばかりついて来てた裕太。
学校の図工の時間に作った粘土の写真立てを私にくれた事覚えてますか?ホントに嬉しくて大切にしようと思っていたのに、
彼氏にふられた時、中の写真と一緒に燃やしてしまってごめんなさい。
思春期に入って、あんまり家族と話もしなくなった裕太に、
大人になったんだなとうれしくもあり、寂しくもありました。
裕太は家では突っ張っているけれど、私は裕太が優しい子だと知っています。
もう少し大人になったら、お姉ちゃんの気持ちもわかるようになるかな。
私がお嫁に行っても裕太は私の大切な弟です。辛い事、悲しい事があったら何でも相談してね。
お金の事以外ならきっと力になれると思います。
それじゃ、体に気を付けて。父さん母さんをよろしくね。

追伸:お前、何勝手にひとの机漁ってるの。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ねーちゃん…。

[コピペ]泣ける

362 :名無しさん@お腹いっぱい。投稿日:2008/08/30(土) 11:19:23
»361
慣れていなくて間違ってしまった。

先週娘の結婚式だった。
私も娘も素直な性格じゃあないので、ろくに会話を交わすこともなく結婚前夜が過ぎた。
結婚式当日は娘を直視できなかった。
バージンロードでは体が震えた。
披露宴では泣きたくなかったので、やはり直視せずにいた。終始上の空だった。
式が終わり帰宅し、リビングのテーブルに座りボーっとしていたら妻がパソコンを持ってきた。
今日までしっかり娘を育ててきたお父さんに私からのご褒美だと言い、画面に映像が写った。
生まれたての小さな娘、カメラの前で歯がない口を大きくあけて笑う娘、
ハイハイで駆けずり回る娘、歩く娘、転んで泣く娘、
とうたん、と言う娘、
おとうさん大好きと笑う娘、私に抱き上げられぎゅっとしがみつく娘、
運動会で頑張った娘、
撮らないでとそっぽ向く娘、
カメラに気付き髪を直す娘、
映像の中で娘はどんどん成長していき、見慣れた今の娘になった。
結婚式前夜にちゃんと話をできたらいいんだけど…という言葉から始まり、
最後にお父さん本当にありがとうございました。お父さん大好きと泣きながら言ってくれた。
パソコン教室に通ってまで頑張ってくれた妻と、これまで健康に成長したくさんの思い出をくれた
娘に感謝の気持ちで一杯で涙が溢れた。
死ぬときには、このDVDと一緒に棺に入る。死んでもずっと私の宝物だ。

[コピペ]ほのぼの

313 名前:まい 投稿日:2000/04/04(火) 16:57
幼稚園の頃お絵描きの時間に先生が
「大好きなものを描いてね」といういやに抽象的なテーマをだした。

みんなは、「おかあさん」とか「愛犬」とか「お花」を描いていたが、
私は画用紙一杯に茶色の丸を何個も何個も描いた。

先生の「これ、なあに?」の問いに
「とりのからあげ!」と元気に答えた私。
教室内は大爆笑、「だって、好きなものって言ったやん」と子供心が傷ついた。

その絵を、返却され家に持って帰る事になり
「お母さんも笑うかなあ、」と心配になったが、お迎えに来た母に

「好きなもの、から揚げ描いたら先生も皆も笑ってん…」
ここまで話すのが精一杯で大泣きしてしまった。

母は満面の笑みを湛え「そっかあ!」とその足ですぐスーパーに行き、
鶏肉をいっぱい買って来てその日の夜と、次の日のお弁当にから揚げを入れてくれた。

年子の弟がいたので、「お姉ちゃん」というプレッシャーがあったのと、
食が細かったので、「これが好き」とか「これ食べたい」とかあまり言わない子供だったので
母はすごくうれしかったみたい。

父も「この子は酒飲みになるぞお」とうれしそうにから揚げをたべていた。
期待を裏切らず酒飲みになり、あてはいつもから揚げ、
身長も171センチと大きく元気に育った。

「から揚げの絵」は、いまも大切に実家に保管してある。
おかあさん、ありがとう。


[コピペ]シュール

275: トナカイ(ブリクセム) 投稿日: 2006/12/08(金) 17:28:11

俺の姉貴がついに今年の春に結婚することがきまった。

姉貴は32歳の一流企業社員。ビジュアルも美人系。ただ男遍歴がすごく、

関係だけでも50人は越えている。それだけに人(男)を見る目はかなりあ

って、基本的に不器用でも真面目な人にはとても優しくて、チャラけたバカ

男には容赦ない、いわゆる姉御気質。

そんな姉貴の結婚相手は3流企業研究職に務めてる同い年の男性。

物腰の低い地味な男で、ビジュアルは爆笑問題の田中にそっくり。

初デートでにさっそく姉貴は「失礼ですけど童貞さんですよね?」

とクリティカルヒット。田中はかなり落ち込んだらしいが、その夜

電話で姉貴に、自分は恋愛に対するモチベーションが低いダメ人間だが、

もし百戦錬磨の恵子さん(姉貴のこと)を口説き落とせたらいろんな面で

自信がモテる男になれるかもしれない。だからお付き合いしてくださいと、いった。

姉貴は、じゃあ口説き落としてください、といい、それから二人の交際がスタート。

田中はとにかく苦戦しつづけた。デートからプレゼントまで毎回姉貴にケチをつ

けられていた。姉貴はその間も、他の男と平気でデートする非道振りを発揮。

それでも田中は必死だった。俺も田中に協力ということで作戦会議をして、

姉貴を落とす算段をいっしょに練ったりもした。

姉貴はデートから戻ってくるといつも俺に田中の至らない点を話しては笑っていた。

しかし俺は知っていた。姉貴が田中のことを話す時、とても嬉しそうなのを。

それから1年後、あか抜けた田中に、なんと姉貴の方から結婚を言い寄る

言葉を口にした。そして今年の4月に二人はゴールインする。

愚問とは知りながらも、俺は本当に田中でいいのか姉貴に聞いてみると

姉貴は満点の笑みを浮かべながら答えた。

「だってあの人のお爺ちゃんって実家では有名な土地持ちなのよ。」

[コピペ]全米が泣いた

520:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2005/07/25(月) 23:27:24

今日、母親の財布から金パクろうと思って開けたら、
10年前の母の日に俺があげた肩たたき券が大事そうに入っていた。

俺は泣きながら2千円を抜き取った。