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管理人ayu

福岡市在住。エンタメ、ラジオ、音楽、ガジェット好きです。2000年頃から長いことやってます。日々の暮らしを豊かにする何かを探しております。
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[コピペ]いい話

自衛隊の凄さと"任務"

17 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:2008/12/20(土) 19:46:26

自衛隊の基地が近くにある田舎なんだが、自衛隊は毎年山で訓練してる。

ある日、下の方の茶畑で知り合いの爺ちゃんの軽トラが道寄せ駐車する際に、側溝に嵌って脱輪。
俺は茶摘みの手を止めて救助に行った。
爺ちゃんは怪我はしてなかったけど、見事にタイヤが側溝にはまって脱出不可能。

何とか側溝から出せないか木の棒を突っ込んでいた時「手伝いましょうか?」声を掛けられた。
振り向いたら迷彩服とリュックを持った男の人が一人。
あ、上の方の訓練地から来た自衛官の人だと思って「すみません。お願いします」って言った。
そしたらその角刈りのお兄さんが大声で「集合!」ドドドドドド(茶畑の横の獣道からゾロゾロと自衛官が出てくる)「整列!」ビシッ!

総勢15名の隊員達が現れた。

マジであれはビビった。まさか山の上から出てくるとは思ってなかったし、全員すげぇ装備担いでるし、さらに模擬銃?を担いでたからテンぱったわwww
爺ちゃんも「おぉぅ…」とか言ってたしw

「5分、脱輪解除。始め!」

キーを渡して4分で軽トラ脱出www
すんげぇ早業で、自衛隊の凄さを思い知ったわ。
こういう訓練もしてるというのにも驚いた。

脱出した後は車両点検してくれて、爺ちゃんが何度も頭を下げてた。
隊長っぽい角刈りの兄ちゃんは「これも我々の任務です」とサラリ
その後は敬礼して農道を下って行った。

自衛隊の凄さと"任務"に感動したわ。

[コピペ]いい話

107 :ぶるぶる :02/08/20 02:01

私が小学校三年生位の時の話です。
そのころ、とても仲よしだった、
きよみちゃんという女の子が、クラスにいました。
彼女と私は、毎日のように学校が終わると、
お互いの家を行き来しては、ふたりで遊んでいました。
その日は、彼女の家の台所のキッチンテーブルで、
ふたりでドラえもんを読んでいました。
その内容は、ドラえもんが、のび太に切抜き絵本
のようなものを出してあげます。

それには、ケーキやおかし、車など色々なものがあり
切り抜いて組み立てると、本物のように、
食べれたり、乗れたりするというものでした。
きよみちゃんと私は早速、
「おもしろい!まねしてみようよ!」
と、画用紙や、ハサミ、色鉛筆を持ち出しました。
もちろん本物になることなどありえないと、
理解できる年齢でしたが、とても楽しかった
のを覚えています。
そして、日も暮れかかり、私が家に帰らなければ
いけない時間になりました。

きよみちゃんは、いつもそうするように、
玄関の外まで、私を見送りました。
そのとき、きよみちゃんが言いました。
「ぶるぶるちゃん。今日のこと、
大人になっても忘れないで」
私はきよみちゃんが、いきなり変なことを
言うのには慣れていたのですが、
そのときは、彼女の様子がいつもと違うので、
なんでー?と聞き返しました。
今こうしてふりかえると、確かにあの日の
きよみちゃんは、いつもと雰囲気が違ったような
気がします。

きよみちゃんは続けました。
「今日の私、32才の私なんだ」
ますます私には、訳が分かりません。
でも彼女は続けます。
「2002年だよ。32才。ぶるぶるちゃんのこと
思い出してたら、心だけが子供の私に飛んでっちゃった」
はっきりいって、聡明とはほど遠かった(今もね)
子供の私は、なんだかわからないけど、
2002年と行ったら、超未来で、車なんか空飛んでたりする、
という考えしかないくらい遠い遠い未来。

「ふーん。ドラえもんの未来からかー!」
なんて、ばかな受け答えしかできませんでした。
きよみちゃんは、そんな私を笑いながら、
「それが全然!マンガの世界とはちがうよー」
と言いました。
そして、私ときよみちゃんは、また明日遊ぶ
約束をして、別れました。
今考えると、なんであのときもっと問い詰めなかったんだろう
と後悔しますが、なんせ子供だったし、
きよみちゃんも私と同様、ドラえもんの影響で、
ふたりでよくSFチックなことを、夢見ていたので、
別にきよみちゃんが私に言ったことが、
そんなに変とも思わなかった。

翌朝、学校に行くと、いつものように
きよみちゃんが私に、話しかけてきます。
まるっきり、いつものきよみちゃんでした。
そして、私もまた、きよみちゃんが私に
言ったことなど、すっかり忘れて、
そのまま毎日が過ぎて行きました。
そして、私たちは5年生になり、それと同時に
私は地方へ引っ越すことになりました。
そしてそのまま、きよみちゃんと、二度と
会うことはありませんでした。

今年、2002年。私は32才になりました。
そしてハッとします。
あの日のきよみちゃんの言葉を思い出して。
もしかして、もしかして、もしかして..と。
私はその後も、引っ越しを繰り返し、
今では海外在住です。
きよみちゃんを探したいのですが、
結婚してれば名字も変わっているだろうし、
どうやって見つけられるか。
あの頃の私は、片親だったので
(当時はまだ珍しく、世間からは白い目で
見られがちだった)、
「ぶるぶるちゃんと遊んじゃだめよ。片親なんだから」
と、思いっきりよその子供の親が、
私の目の前で言うなんてことも、珍しくなかったし、
大嫌いだった先生にも、
「片親だからね。目つきも悪くなるんだろう」
と言われたこともあった。

そんな中、きよみちゃんだけが、私の友だちで、
子供時代の唯一の理解者であったと思う。
会いたいと思う気持ちがそうさせたのか、
2週間ほど前に、”あの日”の夢を見た。
あの日と同じ、きよみちゃんのおうちの台所。
イッチンテーブルいっぱいに、画用紙と色鉛筆。
私が自分の家から持ってきた、コロコロコミックが二冊置いてある。

(当時コロコロコミックは、結構高価だったので、
私ときよみちゃんは、かわりばんこに買って、
ふたりで回し読みをしていた)
台所からは、6畳ほどの今が見え、
きよみちゃんのお母さんが、緑色の座椅子に座って
テレビを観ている後ろ姿が見えます。
本当に、何もかもが、私がこの夢を見るまで
忘れていたことまでが、はっきりと、目の前にありました。
きよみちゃんが、ケーキの絵を画用紙に描いて、
色を塗り、私はその横で、ハサミを持って、
きよみちゃんが描くケーキを見つめています。

私は、夢の中で、
「これは夢だ」
と自覚していました。
きよみちゃんが、ふと手をやすめて、私を見ます。
そのとき、私は彼女に言いました。
「きよみちゃん。今日の私も、32才!」
きよみちゃんは、びっくりした顔をしたと思うと、
私を見つめて言いました。
「忘れなかったんだ。ぶるぶるちゃん..」
きよみちゃんは、半分泣き笑いような表情です。

私も、泣きそうになるのをこらえながら、言いました。
「ドラえもんの未来じゃなかったねー!」
そして、ふたりで泣きながらも、大笑いしました。
そして…私は目が覚めました。32才の私の体で。
私は、泣いていました。
ただの夢だったと思う。でも、私は
時空を超えて、あのときのきよみちゃんに、
会いに行ったのだと思いたい。
きよみちゃんが、そうしてくれたように。

[コピペ]いい話

237 名前: 専守防衛さん 投稿日: 04/04/xx

地下鉄サリン事件時、築地駅の除染に出動した101化学防護隊+32普連の混成部隊「築地中隊」。

最先任だったK.M一尉(当時)は、完全防護の部下と共にサリンの除染を完了した。
しかし史上初の¨化学兵器成分の除染¨。完全に排除できたかどうか?には疑問がつきまとった。
空気中に除染しきれなかった、気化した残存成分が残っているかもしれず
それを恐れて、駅員からの「もう安全ですか?中に入れますか?」との質問に答えあぐねていた。

空気中の気化物質を測定するには、専用の警報機が必要。しかし警視庁に優先貸与してしまい
手元にあるのは、液体しか測定できない「検知紙」しかなかった。

…K一尉は、決断した。

238 名前: 専守防衛さん 投稿日: 04/04/xx

『私が、行きます』

近くにいた、防護服を来た消防隊員を二名指名し
「協力願います。もし自分が倒れたら、すぐに担いで外へ出してください」と要請。
除染が済んだ地下鉄のホームへ再び下りていった。

Kはホームに立ち、防護マスクの首の部分を瞬間的に開いて再び閉じ
マスク内で深呼吸した。…異常はない!。 Kは最後の勇気を振り絞り、マスクを脱ぎさった。

そして、さらに深く深呼吸する。
完全防護の消防隊員は、防護マスク越しにKを見つめる。
そして、Kの笑顔を見て安堵の笑みを漏らし、三人は頷きあった。

K一尉の「もう大丈夫です!」の叫び声ののち、周囲からは一斉に歓声があがり、拍手の渦となった。

という記述のある本が新潮文庫から出てますが(氏名は当方で伏字に)
…本当に、自衛隊の皆様。ご苦労さまですっ

[コピペ]いい話

2014-03-20_0701

774:おさかなくわえた名無しさん:2009/10/04 08:50:20

じいちゃんとばあちゃんは2人で暮らしてた。
ばあちゃんはボケが進んでた。
じいちゃんが介護してた。
いろいろ大変だったみたいだけど、会話はできているようで、人が思うほど大変じゃないよって言ってた。

ばあちゃんの家に行くと、いろんな事が紙に書かれている。
「冷蔵庫は閉めましょう」
「電気は消しましょう」
「トイレは←」
「ふく、くつした↓」とか、
いろんな字がじいちゃんの手で半紙に筆で書かれていた。
書いてあれば守ってくれるんだって。

じいちゃんはいつも一緒にいてあげたけど、
どうしても区役所とか病院に薬をもらいにとか出かける事がある。
心配だけど「外には出ないこと」と玄関に書いておけば、
大人しく待っていてくれたんだって。

ある日、じいちゃんが出かけた。
もちろん玄関には「外には出ないこと」
それなのに、じいちゃんが戻ってきたら、ばあちゃんは家のすぐ前で車に轢かれてしまっていた。
救急車で運ばれた。
じいちゃんが駆けつけると、待っていたかのように、じいちゃんの手を強く握って天国へ行った。
じいちゃんはとても悔やんだ。
家族全員も悔しかった。
今まで書いてあることは必ず守ってたのになぜ家を出たんだろう。

家族同然の付き合いをしていた隣のおばちゃんが話をしてくれた。
事故の直前、急に雨が降ってきた。
おばちゃんは布団を取り込みに庭に出た。
すると、ばあちゃんが傘を持って慌てて道路に出てきた。
ばあちゃんの病気をおばちゃんは知ってたから、心配になって、ばあちゃんの方へ向かったその時に事故が。

じいちゃんが勤めていた頃、ばあちゃんは雨が降ると必ず駅までじいちゃんを迎えに行ってた。
ちょっとでも雨が降ると必ず迎えに行ってた。
雨を見て、じいちゃんが家に居なくて、傘を持っていこうとしたのだろう。
それだけ、じいちゃんが好きだった。
じいちゃんもばあちゃんが好きだった。

じいちゃんもしばらくして病気で天国へ行った。
ばあちゃんが持っていた傘と一緒にお墓に眠っている。
じいちゃん、ばあちゃん達は幸せだったんだろうな。

[コピペ]いい話

292 名前: 名無しさん@HOME 投稿日: 2008/11/27(木) 16:48:16 0

食物アレルギー持ちの息子@4歳

五大アレルゲン全部に反応が出て、
この子はこれから何を食って生きていけばいいんだろう、
と途方にくれたのが約3年前。

代替食やら雑穀やら無添加食材やら、びっくりするような値段の食材を買い込み、
脅威のエンゲル係数を叩き出し、嫁はノイローゼ気味になりながら、
俺も元々料理は好きだったので、なんとか普通の味に近づけるようにレシピを工夫して、
少しでも嫁の負担を軽くしようとした。今ならレシピ本一冊くらい書けるレパートリーがある。

そんなドタバタすごしながら、段々と抵抗力というのか、抗体というのか、
とにかく食べられるものが少しづつ増えてきた。

先週の日曜の朝、家族で喫茶店にモーニングを食いにいった。
息子は柑橘はハラがくだるのだが、最近は調子が良いのでオレンジジュース。親はコーヒー。

トーストとゆで卵が付くのだが、息子は念のためトーストには何もつけない様に注文。(牛乳由来は微妙)
パン(小麦)はかなり平気になったので、楽々クリアだが、問題は卵。
負荷試験では、1週間に卵半分くらいなら大丈夫との結果が出ていたので、試しに食べさせてみる。
見よう見まねでカラを剥き、一口食べる息子。

俺・嫁「どうよ?」
息子「ん~」
嫁「塩つける?いっぱいつけちゃダメだよ」(小皿に塩を出す)
息子(小皿の塩をチョンと付けもう一口) 「……んまーい(・∀・)!!! 」

この時の顔がホント嬉しそうで旨そうで、
今まで除去とかしてきた苦労を思い出して喫茶店で泣きそうになったよ。

まだまだ食べれないモノもあるし、体調が悪いと反応が出たりするけど一緒にがんばろうな。

[コピペ]いい話

689 :癒されたい名無しさん :2006/04/04(火) 00:02:11 ID:TsqReHtD
友達が亡くなったのは6年前。
高校卒業後直ぐに職場結婚をしてすぐに長女を出産した。
出産直後に彼女の口から「乳癌で胸を切らないといけない」と聞いた。
妊娠前に既に病魔におかされていたらしく、胸筋から肩に掛けての
筋肉まで切除することになった。

その頃から彼女は「生きる意味、自分の人生」を見つめなおした。
ギャンブルに明け暮れているが子供に優しい旦那、
自分はこの男を愛しているのだろうか?

結婚したのは末期癌だった父に花嫁姿を見せたかったから。
安易といえば安易だけど結局具体的な理由なんてそんなもんだ。

旦那の浪費をカバーする為に子供が寝た後の深夜に病後だというのに
アルバイトに行き出した。辛いが結構楽しくやってると笑っていた。
そこで、副店長をしている人と知り合った。

決して不倫などはしなかった。ただ、好きになった。
健康とはとても言えない、ましてや乳房がひとつしかない。
黙って旦那と過ごすのが世間的にも当たり前の選択。
ましてや相手の気持ちなんか怖くて聞けないと言った。

690 :癒されたい名無しさん :2006/04/04(火) 00:18:54 ID:TsqReHtD
続き

だけど彼女は一人で暮らす事を選んだ。
残り少ない人生を世間体だけでムダに過ごすのは出来ないと言って。
当然子供は旦那が引き取ると主張した。
収入も健康も不安定な彼女に任せる事は出来ないと。

お金がないので家族で住んでいた社宅から夜に何度も
私と友人2人の4人で荷物をバンに乗せて運んだ。
ぼろっちいドリフのコントに出てきそうなアパートの2階。
「まるで夜逃げだ」とみんなで笑った。

夜のバイトだけでは生活が出来ないと昼間スーパーでも働いた。
「いつ寝るのよ」と冗談半分に言ってみたが(身体が心配だったから)
「生きていく為だもん、だいじょーぶよ」と笑っていた。
癌は5年再発しないなら完治したというらしいから後2年頑張ると言っていた。

1年ほど忙しさにかまけて連絡も滞ってた頃
「引越ししました。遊びにおいでよ」という手紙がきた。
彼女の人生の転機となった彼と暮らすと。

「夜逃げ」仲間が新居に押しかけて(彼は仕事でいなかった)鍋パーティをした。
結婚していた友人が先に帰る事になり、もう一人の友人が駅まで送って行って
2人きりで部屋でテレビゲームをしていたとき、ぽつりと彼女が言った。
「後少しだったんだけどね。再発しちゃったわ」
肺に飛び散ったようにがん細胞が転移していた。

691 :癒されたい名無しさん :2006/04/04(火) 00:40:38 ID:TsqReHtD
続き

返す言葉もなくテレビ画面を見ながら「そうか」とだけ答えた。
彼女も黙ってテレビ画面を見ていた。二人で黙々とサイコロを小悪魔で
転がすゲームをした。

「私、死ぬつもりはないからね」突然彼女がいった。

「当たり前じゃばか」と私も答えた。

半年後、彼女は入院した。リンパに癌が転移した。

見舞いには来てくれるなといった。その言葉に従って見舞いには行かなかった。
ただ、彼女の母さんに『ドリームキャッチャー』を預けた。いい事だけが
彼女に起こりますようにと。

退院する度に「飲みにいこうよ」とメールがきた。退院するたびに4人で集まった。
何事も無かったかのように笑い、食べ、飲んだ。彼女の長い髪が肩に掛かっていないのが
唯一の彼女の戦いの跡だった。

「入院しました。良かったらお見舞いにきてくれない?」と初めてメールがきた。

病室に入ると身動きも取れない彼女が小さく手を振った。頭の上には私が贈った
『ドリームキャッチャー』が風に揺れていた。

言いたい事が見つからず「なにか食べたいものない?」と聞いた。
「すいかが食べたいな」と彼女が小さな声で言った。
少し離れた市場まで走って行きで1/4のスイカを買った。
小さく切ったスイカを口に含ませてあげると「甘いね」と笑った。

夕方、彼氏が病室に顔を出した。ちょっと小太りだけど温かい笑顔の人だった。
「今日は髪を洗ってあげるよ」「うん、ありがとう」
何気ない会話を交し合う二人を黙って見つめた。
「お邪魔だからそろそろ帰るね」と腰をあげた時、彼が彼女を抱き上げて車椅子に乗せ
黙って3人で病室の外までいった。

692 :癒されたい名無しさん :2006/04/04(火) 01:05:10 ID:TsqReHtD
続き

「ここでいいよ。また来るから」と言うと「今度はゼリーがいいな」と
彼女は言った。手を振り合って私はエレベーターに彼女と彼はシャワー室へと進んだ。

初秋の夕暮れ。そっと振り返って彼が押す車椅子を見た。ぽつりぽつりとした話し声と
小さな笑い声が聞こえた。この姿を一生覚えておこうと思った。

それからまもなく彼女のお姉さんから『幸子が亡くなりました。』というファックスがきた。

友達の車でお通夜に向かいながら「行きたくないね」「逃げちゃおうか」と
冗談とも本気とも言えない事をずっと言っていた。

お通夜の席で受付に元旦那さんが座っていた。「その節はどうも」と苦笑いをされた。
彼の姿を探すと隅の方に申し訳なさそうに小さくなって座っていた。

「お疲れ様でした。最後まで一緒に居てくれてありがとう」と声を掛けた。
「いや、僕が死に水を取る為みたいなつもりで暮らしていましたから。覚悟はしてたんですが
やはり部屋に帰って玄関にあの子の靴があると『ただいま』って言っちゃって参ります。」
と言った。

告別式でも彼は参列者の一人としてお焼香を上げていた。遺影を持つことも位牌を持つことも
出来なかった。高校時代の友達が泣いているのを不思議な気持ちで見つめた。

最後の対面の時、初めて彼が搾り出すように嗚咽を漏らして泣いた。その姿を見て私も
初めて泣いた。声を上げて泣いた。

死にたく無い、死ぬつもりはない と強くいった彼女を思った。
死に水を取る為に彼女を愛した彼を思った。

ごめんね、もっとお見舞いいけばよかった。ゼリー食べさせてあげれなかったね。
もっと言葉掛ければ良かった。好きなお酒も思い切り飲ませてあげなくてごめんね。

数日後、彼女の携帯に深夜電話してみた。繋がった。慌てて切ろうとしたら彼が出た。
「もしもし?」
「す、すいません夜中に。切りますごめんなさい」
「○○さん?」
「・・・はい」
「幸子はもう痛くないよ。安心して眠ってください」
「・・・すいません」
「ありがとう。彼女を好いてくれてありがとう。」
「ありがとうございます。最後まで彼女を愛して下さって」
「おやすみ」
「おやすみなさい」

さっちゃん。今はそちらはどうですか?貴女が居なくなって6年です。

[コピペ]いい話,[コピペ]トリビア

偉大な詐欺事件の話

1906年ドイツにおける詐欺事件「ケペニックの大尉」は、確かに詐欺事件である。

この事件は、確かに詐欺ではあるが、得た4000マルクのうち、住民票を貰うというささやかな目的の費用にしか使わなかったし、その費用が必要になった理由も、はっきりいって役所が無能だったからである。
犯罪とはいえ、情状酌量の余地は果てしなく大きい。この見事な詐欺は、国民から熱狂的に賞賛され、粋を解する酔狂な皇帝ウィルヘルム二世にいたっては「これが規律というものだ。何人もこの点でわが国の真似ができる者はおるまい!これこそが制服の力だ」と、大爆笑したうえに大喜びで、なんと恩赦まで与えているのだ。

さて、その奇妙で明るい詐欺はいったいどんなものか?

事件の概要を述べると、1906年のこと、しょぼくれた外見、57歳靴屋の親父ウィルヘルム・フォイクトは、やっと結婚がきまり、新居のためにも、どうしても旅券が必要だった。そこで旅券を得るために住民票を貰おうとしたが、お役所の仕様で、たらいまわしにされた挙句、どうあがいても旅券がもらえないという、ひどく理不尽な目にあってしまった。本当にささやかな願いであった。

だがそこで、フォイクトは「お前・・・ジョーカー気質たっぷりじゃない?」と突っ込まざるを得ない行動に出た。旅券を得るという目的のためだけに、以前から暖めていたアイデアを使い、ケペニック市役所に堂々と乗り込んで、住民票を得ようとしたのだ。

その方法がすばらしい。

まず用意したものは一着の古着、プロシア軍大尉の制服であった。これだけである。

まずフォイクトは、大尉の制服を着用し、ベルリンに赴いた。そこで帰隊中の哨兵小隊に出会ったので、さっそく呼び止めたのである。下士官は、大尉(の制服を着た靴屋の親父)の命令に疑問を挟まず従った。そして加勢を呼ぶよう指示し、なんと総勢14名の小隊を率いてケペニック市まで移動。

そのままケペニック市庁舎に乗り込んだのである!凄い度胸である。

不正経理が行われた疑いがあるとして調査を開始し、市長を呼びつけ逮捕。そのまま市庁舎を占拠した。その間にも市長と奥さんの、ガクブル過ぎる愉快な挙動が伝わっているが、ともかく会計係に金の勘定をさせたフォイクトは、その間に旅券を得ようとしたが、市役所に旅券を発行する部署がないことを知り、結局、不正の疑いがある(という設定の)4千マルクを運び出させた。市長は、大尉(の制服を着た靴屋の親父)の命令でベルリンに護送されることになってしまったのだ。
14名の小隊には、護送用の馬車を用意させ、30分ほど待機しているように、と指示を出し、自分はそのまま4000マルクを抱えて駅までいき、普段のしょぼくれた靴屋の親父に戻り、帰宅したのである。
市長と一行はというと、いざベルリンに到着するも、担当の将校がそんな連絡を受けていないわ、4000マルクの領収書には、存在しない大尉の名前でサインされているわで、行き場がないことが判明。そしていよいよ市長も、下士官も、事態に気が付いたわけである。

フォイクトは、このアイデアを過去にしゃべっていたことがあり、そこから足がついたため10日ほどで逮捕されてしまうが、面子を潰された軍以外の、皇帝を含むドイツ全体が、フォイクトに喝采を送ったのである。ちなみに、フォイクトは本気で旅券だけが目当てだったらしく、4000マルクのうち、半分を使い、それもすべて偽造の旅券を得るためだけに使用していたのである。
これがケペニック事件であるが、利得の絡んだ詐欺ではあるもの、まさにプラクティカル・ジョークというに相応しい発想、センス、雰囲気、手間、を兼ね備えていると評価できる。

なお、この事件は国民も皇帝も大喜びだったため、実際上、罪にはなっておらず、演劇としても繰り返し上演されることとなる。素晴らしい。


キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン

[コピペ]いい話

41 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします(鹿児島県) 投稿日:2008/09/10(水) 23:03:47

僕の兄は身障者です。

お話もできません。
自分で歩くこともできません。時々「あー」って大きな声を出します。
僕が小学校のとき、兄ちゃんの事友達にも内緒にしていました。
ある日の朝、母が「養護学校のバス停から3時におにいちゃん迎えに行って。」と頼まれました。
小学生のぼくでしたが、裕福な家庭でなく母も仕事をしていることは解かりました。
だから、仕方なくですが、迎えに行くことにしました。

学校から帰り、兄ちゃんを迎えにいきました。ちょうどその時間が下校時刻であり、みんなとあってしまいます。
車椅子を押しながら兄ちゃんを見られたくない(恥ずかしかった)こともあり、
普通に帰れば舗装されたきれいな道を通らずにがたがたな砂利みたいな道を通って遠回りして帰りました。
遠回りをしてみんなのいる道を避けました。

家に帰ると母親は仕事から帰ってきていました。汚れた埃まみれの車椅子をみて母はすべてを悟ったようです。
泣いてました・・・そして「これからは母さんが迎えに行くからね。」といいました。
僕はその母の涙を一生忘れられません。

僕は兄ちゃんになんて事をしたんだろうと後悔しました。
兄ちゃん。「ごめん」兄ちゃんが悪いところ全部持って生まれてくれたからおれなにも気にしないで生きていってるのに。

うちの兄ちゃんはしゃべれないしひとりでトイレも行けないけどいつも僕が行くと笑ってくれます。
世界で1番自慢できる兄ちゃんです。

[コピペ]いい話

978 本当にあった怖い名無し :2007/02/02(金) 19:17:37 ID:iylFpRXd0

四年前まで飼っていた犬が全盲だった。
でも、とりたてて「世話が大変」とかいう事はまるでなかった。
今になって「よく考えたら、あいつ目が見えなかったんだよね」というくらい。

こないだ家族でその犬の思い出話をしていて、一つ驚いた事があった。
家の中と庭では自由に歩き回っていたそいつも、
散歩の時だけはリードを繋がなければ決して歩こうとしなかった。
人間がリードを引っ張る微妙な角度で、
止まる・右へよける・左へよける・段差がある・・・
等の路面状況を、奴に判断させていたからだ。

「特に教え込んだわけでもないのに、よく理解してたよね」という話になり
ふと疑問に思って、家族にそれぞれの合図の出し方を聞いてみたら

俺の「止まれ」→真上にリードを引く
姉の「止まれ」→斜め後方に引く
母の「止まれ」→小刻みに何度かリードを引く(俺の「段差がある」の合図と同じ)
父の「止まれ」→「止まれ~」

という具合に、皆全然違う合図を出していた事が判明。
犬は家族のクセを、全部読み分けていたのだった。
俺達が「世話が大変」と思わなかったのは、
奴のそんな努力があったからなんだな・・・と、しんみりした。

しかし、そんな俺たち家族にも、共通していた事はあった。
リードを伝わってくる、奴からの全幅の信頼感だ。
クサい表現になるけど、あのリードは正に俺達の絆を繋いでいた。
目隠しをして紐一本で繋がれて、「さあ歩け」と言われても
なかなかできるものではないだろう。

奴が死ぬ間際まで使っていたリードは、未だに壁にかけてある。

980 本当にあった怖い名無し :2007/02/02(金) 20:24:55 ID:iG4vbYNA0

盲導犬は人間に全幅の愛と信頼をくれるけど、
目の見えない犬も同じものを示してくれたんだね…
今は大好きな貴方たちの姿をちゃんと「見て」いるんだろうな。

[コピペ]いい話

8 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします(宮城県):2008/09/13(土) 22:23:37

阪神・淡路大地震のあと、阪急電車の復旧を沿線の人々は待ち望んでいた。うちもその一軒。
夜を徹して行われる作業、騒音や振動をこらえてくださいと、電鉄会社の人が頭を下げに来た。
「何を言ってるんだ?我慢するに決まってるじゃないか。それよりも一刻も早い復旧を。」
うちも含めて、沿線の人々はみなそう言って、電鉄会社の人を励ました。

阪急は国の補助も受けず、少しづつ復旧・部分開業していった。
そして最後に残された西宮北口~夙川間の高架部分の再開によって、
ついに神戸本線は全通した。
再開の日に、もちろん漏れも乗りに行った。神戸で逝った友のもとへ行くために。
運転台の後ろは人だかりだった。みな静かに鉄道の再開の喜びをかみ締めているようすだった。

夙川を渡るそのとき、川の土手に近所の幼稚園の園児たちが立ち並んでいるのが目に飛び込んできた。
手書きの横断幕を持って・・・。

「あ り が と う  は ん き ゅ う で ん し ゃ」

運転手が普段ならしないはずのそこで敬礼をした。
そして大きく「出発進行!」と声を上げた。
その声は涙声になっていた。漏れも泣けた。

ときよ、上越新幹線よ、もまいを待っている人々がいる。
復興のために、そして人と人をつなぐために、よみがえれ、不死鳥のごとく。