[コピペ]泣ける

65:先駆けタンバリンだじぇお ◆DAjeOPNM.Q :2010/11/19(金) 01:57:16

この間の友人(新郎の方)の結婚披露宴。
タイムスケジュールも最後の方、新婦の父親のスピーチ。

「明子。明子が生まれてすぐ、お前のお母さんは病気で亡くなりました。
 お前は母の顔は写真でしか知りません。母親の声も知りません。
 母の愛情も知りません。片親でつらい思いもしただろう。
 それでも父の私に文句一ついう事も無く、明るくて素直で思いやりのある子に育ってくれた。
 本当に手がかからない子だったし、よく家事もやってくれた。
 相手にも恵まれて、幸せになってくれてお母さんも喜んでくれてると思う。
 
 最後にお前に謝ることがある。

 明子に25年間隠していたものがある。
 いつか嫁に行くときに見せてあげようと思ってずっと取っておいた物だ。」

・・・そして古ぼけたブリキみたいな箱からとりだした1本のビデオテープ。
会場のセットで再生・・会場ザワザワ・・・

そこにはベットの上で笑顔で赤ちゃんを手にする母親の姿。
そう25年前の新婦と母親。

母親の笑顔のなんと神々しい事。まさに聖母の如く・・

はじめて見る母親の姿に新婦どころか全員が嗚咽だったよ。
とくに新婦はもう見ていられなかった。

そしてしてやったりの新婦の父。あの人だけは泣く事もなく、淡々としてたんだよなあ。
そこがまた泣けるんだけど。

[コピペ]泣ける

747:名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 04:35:26.24

私のかみさんは、四年前に死んだ。夜中の爺のたわごとです。
50年連れ添ったのに、息子を三人も産んでくれたのに、
私は何もしてやれなかった。
それぞれ、皆、もう中年のおじさんだけど、君に似ていい男になったよ。

君と結婚した時、こんな美人が私についてきてくれるなんて夢心地だった。
身体が弱いのに、上の子二人は双子だから、
君の命か子供の命で迷ったのに、産みたいって言ったね。

もう46年前だけど、内心君が死んだらどうしようとはらはらしてたんだ。

長男の子は高校に行ってるよ。君の料理を喜んでくれたな。
次男は大きいホールでコンサートして、格好よかった。
三男は働き者だ。
こんな形見を遺してくれたのに、四年もたつのに、まだ苦しいよ。

年だから余計さみしいんだよ。
君のようにきちんと家事もできない。
毎日泣いてるんだよ。
子供たちとも離れて住んでいるから毎日会えないし、
一人で住むには家が広すぎる。さみしい。

お迎えが来たら、会いにきてくれるかい?私は今も君が一番好きなんだよ。

爺の役目はもうすぐ終わり。
また新婚の時みたいな暮らしが、あの世でできたらいいな。

初めて弱音をはきました。
若い人に比べれば、爺の話は大したことがないね。情けない。

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450:名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 10:59:13

親父の話。
高校1年の夏休み、両親から「大事な話がある。」と居間に呼び出されたんだ。
親父が癌で、もう手術では治りきらない状態であると。
暑さとショックで、頭がボーっとしてて、変な汗が出たのを憶えている。
当時、うちは商売をしていて、借金も沢山あった。
親父が死んだら、高校に通えるわけがないことは明白だった。
そして俺はお世辞にも優秀とはいえなかった。クラスでも下位5番には入ってしまう成績だった。
その夏から、親父は、抗がん剤治療を開始し、入退院を繰り返していった。
メタボ体型だった親父が、みるみる痩せこけていった。
母親の話では、主治医の見立てでは、もって1-2年だろう、ということだった。
ただ、親父は弱音を吐くことはなかった。
親父は「高校、大学はなんとかしてやるから、しっかり勉強しろよ」って言ってたよ。
仕事もやりながら、闘病生活を続けていた。

451:名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 11:01:09

俺といえば、目標も特になく、高校中退が頭にチラついて勉強は進まなかった。
ただ、ボーっと机に向かって、勉強するフリだけはしていた。
せめて親父を安心させるためだったと思う。
だから、その後の成績も、とても期待に添えるものではなかった。
ただ、親父の「高校、大学はなんとかしてやる」の言葉が、重かった。
「おまえ、将来、何かやりたいことはないのか?」
高校2年の冬、痩せこけた親父に問いかけられた。
俺は、期末テストで学年ビリから2番をとり、担任からも進路について厳しい話をされていた。
言葉もない俺に、怒ったような泣いたような顔で親父は言った。
「・・・ないなら、、医者になれ! ・・・勉強して、医者になって、おれの病気を治してくれ!」

452:名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 11:02:52

上手く説明できない熱い感情に、頭をガツンと打たれた。
自分への情けなさとか、怒りとか、色々混じったものが込み上げた。
その時、親父には返事を返すことはできなかったが、俺は決意した。
それから、猛烈に我武者羅に勉強した。
高校3年の夏、親父は逝った。
親父は、闘病生活の2年間で借金を整理し、俺の高校の学費をなんとか工面したそうだ。
親父のおかげで、高校卒業できた。
そしてありがたいことに、1年間の浪人生活を経て、俺は地方の国立大学の医学部に合格した。
俺は今、癌専門治療医として働いている。
親父は、「あいつは、将来おれの病気を治してくれるんだ」と母に言ってたそうだ。
まだ、親父の癌を治す力はないが、日夜頑張っているよ。
いつか、親父の癌を治せるように。

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668:名無しさん@HOME:2011/12/19(月) 20:56:56


書き捨てさせて。

結婚当初、姑と上手く噛み合わなくて、会うと気疲れしていた。
意地悪されたりはしなかったけど、気さくで良く大声で笑う実母に比べ
足を悪くするまでずっと看護士として働いていた姑は、喜怒哀楽を直接表現せず
シャキシャキ・パキパキ黙々って感じで、ついこっちも身構えてしまっていた。
何となく「私、あまり好かれてないな」と思う時も有って、当たり障りなくつき合っていた。

その年は、私が秋に二人目を出産した事もあり、混雑を避けて一月中旬に帰省する事になった。
そして早朝、今まで感じたことの無い揺れと衝撃を感じた。阪神淡路大震災だった。
朝釣りに行くという夫達の為に、お弁当と朝食を作っていた私と姑は立っていること出来ずに座り込んだ。
食器棚が空いて、次々と皿やグラスが降ってきた。
名前を呼ばれた気がして目を開けると、姑が私に覆い被さっていた。
私を抱きしめる腕も肩も頭も血が出ていた。
夫と舅が子供達を抱いて台所に飛び込んできて、私達を廊下に連れだしてくれた。
歪んでなかなか開かない玄関ドアを開けると、街の景色は一変していた。
義実家はマンションの高層階だったが、エレベーターは止まり、階段にはヒビが入っていた。
呆然とする間にも、大きな余震が襲ってきた。
廊下の壁にも大きな亀裂が入り、揺れが襲う度に何かガラガラと大きな物が落ちていく音がした。
姑が「あなた達は早く逃げなさい!」と部屋に戻り皆の上着やマフラーを持ってきた。
泣きながら「あなた達って・・・お義母さんは?」と聞くと「後で逃げるから、良いから早く!」と恐い顔で言われた。
足が悪くて階段では逃げられない自分は、足手まといになると思っているんだと分かった。
夫が「母親を見捨てて逃げたら、俺はもう子供達に顔向けできない」と姑を背負おうとしたら
姑が夫をひっぱたいた「あんたの守るのは子供と嫁!産後で完全じゃない嫁を幼子二人を守ることだけ考えなさい!」
そして血だらけの手で、私の髪を撫でて「ごめんね。帰省させなきゃ良かったね。ゴメンね」と笑った。


結局舅が姑を連れて、後から逃げると説得され、私達夫婦は子供二人と先に階段を下りました。
避難所で無事に再会出来たときは、安堵のあまり「おうおうおう」と言葉にならない声で抱きついて泣いた。
マンションは数日後に全壊した。
避難所で再会して気が付いたが、姑は家族の上着を持って来てくれたが自分はセーターにエプロンという服装だった。
初めから、皆だけ逃がすつもりだったんだと思ったら、また泣いた。
未曾有の事態に母乳が出なくなったり、出ても詰まったり色が変だったりで
痛くて脂汗を流しながら、マッサージをしていると、産婦人科にいた事もある姑が
「熱を持ってるね。痛いね。でも出さないともっと痛いから。代わってあげられなくてゴメンね」と泣きながらマッサージを手伝ってくれた。
避難所では「ブランクがあって、知識が古いけど」と看護士として働いて、まわりを元気づけていた。

あの時、赤ん坊だった下の子はもう高校生で、舅は既に他界した。
福島の震災をみていると、どうしても阪神地震を思い出してしまう。
同居の姑は、今も喜怒哀楽をあまり出さないけど、今では何を考えているかちゃんと分かる。
ありがとう、おかあさん。あの時の血だらけの貴方を忘れません。

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422:1/2:008/10/31(金) 17:15:22

いとこ(27歳男)が、大腸がんで死んだ。
その彼女は、従兄弟ががんと分かってから、仕事もあったのに
毎日病室に訪れ付き添った。結婚の約束もしていたんじゃないかな。
食べ物を、「お口アーン」とか、やり合ってじゃれてたり、
がんが侵食して痛む従兄弟の腰や背中を、彼女がさすってあげたり。
そのころ、10代のガキだったせいもあるけど、従兄弟が死ぬなんて
まったく想像つかなかった。「きっとこの2人はあと数年もしたら結婚
して、幸せな家庭築くんだろーな」なんて、見舞いにいくたび
幸せな想像しかできなかった。普通にうらやましかった。

しかし、従兄弟の病状はどんどん進んでいった。みるみるやせて、
目ばかりぎょろぎょろになって、身内のわたしでも正視できなかった。
はやく終わってほしかった。人の命のもろさが怖かった。
でも彼女はずっとそばにいた。従兄弟のやせ細った手を握って、
抗がん剤の影響で、ぼろぼろに禿げたあたまにかぶる毛糸の帽子を
作ったり。わたしは、怖くて怖くて病室にも入るのもいやで
病室に入っても、 彼女の後姿ばかり見ていた気がする。
従兄弟は、癌がよくなったらどこかへいこうとか、あれ食べに行こうとか
今度の携帯の最新機種を買いたいとか、来ない日のことばかりしゃべった。

彼女は笑顔で、「絶対いこーね」「わたしあれ食べたい」とか、いってた。
気休めだろって思ったけど、彼女の目は本気だった。
今、思い返せば、彼女はほかにどうすることもできなかったんだと思った。
彼女も怖かったのに、好きな人を失うことが、
きっと自分が死ぬ以上に恐ろしかったと思う。


424:2/2:2008/10/31(金) 17:19:00

年末に、癌が全身にまわり、肺に転移。
従兄弟は最初の意識不明に陥った。
医師は、「癌を抑える薬がある。しかし、一時的に抑える効果しかない。
苦しみがのびるだけ。私の子供が患者だったらこのまま死なせる」ときっぱり。
両親は、「せめて27歳の誕生日を迎えさせたい」と延命を望んだ。
横で、彼女はだまって、ふるえていた。
薬は効いて従兄弟は劇的に回復した。
彼女と温泉にいったり、近場に旅行いったり、
新薬は2人に時間をくれた。
「癌が治った」とはしゃいでいたけど、一時的だというのは
本人が何よりも知っていたと思う。
最後のときをすごす2人に、両親も親戚もなにもいわず見守った。

春、従兄弟が3度目の意識不明に陥った。
あまりの痛みに子供のように泣き叫ぶ従兄弟を、彼女と従兄弟の母親が
押さえつけ、抱きしめた。「ここにいるよ。ひとりじゃないよ」
彼女は、死の激痛にあえぐ従兄弟の顔にキスして、手足をさすった。
医師が死亡宣告し、遺体が自宅に搬送されるまで、
彼女は従兄弟を抱いた。
何かにとりつかれたように嗚咽する彼女をみて
「人を愛する」ってこういうことかと思った。

彼女は、親戚の手前、通夜、葬式にも出られなかった。
毎年、従兄弟の墓参りには来ていた。
従兄弟が死んで数ヶ月あと、勤めていた会社をやめたことを聞いた。

数年たって、墓参りにもこなくなった。
最近、彼女が結婚し、1児の母になったことを聞いた。
寂しく思った反面、ほっとした。幸せになってほしいと思う。