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管理人ayu

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農家からの脱出劇

2chこれはひどい,夫婦

2013-08-01_1228
とんでもないところに嫁いでしまい、義理の母(トメ)義理の父(ウト)からの執拗なイジメに会い、肝心の旦那からは助けてもらえず、なんていつの時代?なエピソードを紹介したいと思います。ずいぶん前の話ですが、超強力です。

365 :名無しさん@HOME:2009/09/17(木) 16:39:06

電車どころかバスも一日一本しかない超ド田舎のクソ膿家に空気夫とウトメと同居して六年。
 
朝は四時半にトメの掃除機(私が寝ている部屋の障子のへりにゴンゴン音を立てて起こす)で起床。
身支度などする間もなく田畑のチェックと野菜の収穫、何をもいできても文句を言われるのは二年目に慣れた。
形が悪く虫だらけの野菜と格闘して朝食の準備、ウトと二度寝のトメと夫を起こす。
食べている間にチェックした箇所の報告をして(当たり前のように返事はない)息子らを起こしてお世話。
 
ウトメと夫が出ていってから息子らと朝食。二層式の古い洗濯機を回しながらセカセカと動く。
息子ひとりにつき卵一個と決められ、私はウトメたちが残したものを舐めるようにこそぎとってご飯と一緒に流し込む。
みそ汁の残り、トメ製漬け物の切れ端(皿に盛ると文句を言われるので端っこはよけてある)、おすそわけの梅干しなど。
 
庭とは呼べない敷地で息子らが遊んでいる間に掃除、洗濯、朝食の後かたづけ、昼の弁当の用意。
塩むすび、うめぼし、たまごやき、お中元お歳暮の時期は焼いたハムなどをつけるが当然わたしには当たらない。
ハムやかたまり肉は誰かの分に端っこが入っていないと食べたのがバレて文句を言われるから、欲しくもない。
 
田畑まではウトメが軽トラ、夫が車に乗っていくので私は歩いて三人分のお茶を弁当を持ち、2~3キロの距離を歩く。
妊娠中も、赤ん坊の頃でも、熱があっても腰が痛くても、おんぶひもと抱っこの時期でも。
どこにいるのか知らされないし私は携帯を持っていないので、近いところから探して回る。
軽トラの運転席、助手席、車の運転席にそれぞれ弁当とお茶を置いて、声をかけて(無視されて)家へ戻る。
息子らは足腰が強い子どもに育っていると思うし、最近は楽しんで遊びながらでも歩いてくれるので楽になってきた。
 

切なすぎる。涙。

こんな事ってあるのでしょうか。ネタだとしてもリアリティあり過ぎ。気になる続きは以下よりどうぞ

366 :名無しさん@HOME:2009/09/17(木) 16:39:24

戻ると昼になるのでそうめんやおにぎりなど簡単なものを作って食べ、息子らの昼寝をさせる。
その間に敷地内を全て掃除、ぞうきんかけ、夕食の準備をする。戻ってきて席についたらすぐ食べられる状態にするために。
食材が限られているので煮物、おひたし、卵料理などがほとんど。勝手に買い物することはまず無理。
お金は落ちている小銭を集めたものしか隠し持っていないし、通帳カード類は全てトメの金庫の中。
そもそも車がないし親しい人もいないので身動き自体がとれない。パソコンも携帯もない。
 
ウトメたちが帰宅する音が聞こえるとすぐに食卓の準備。食べはじめると同時に風呂を沸かす。
想像できるだろうけどもちろん私と息子らは最後。まあどうせ掃除しなければならないので最後で構わない。
シャワーはもともとついていないので、わかした湯だけで全て済ませる。これも一年で慣れた。
テレビはウトメがいるとき以外はつけてはいけない。まあ居る時も傍には寄らないが。
泥と汗まみれの服を下洗いして漬けておき、翌日は四時半に起きるので九時半には床につく。
 
盆暮れ正月来客時は多少の変化はあるが、このような生活を六年も送って頭がおかしかったと自分でも思う。
ウトメと夫は、農業だけは一生懸命だった。(そこだけは今でも尊敬している)
 
夫婦の会話はほとんどなく、次男が生まれてからは睡眠に支障がでるとの理由で寝室は別。
新婚の頃はあれこれと気を遣ってくれたが、一年もすると、私がウトメに文句や嫌味、罵倒されていても聞こえないふりをするようになった。どんなに理不尽なことでも、気が強いトメに怒鳴られると、萎縮するのか諦めるのか定かではないが、とにかくそれ以上関わらないような態度だった。

まあ、私もその点では同じようなものなので責めることはできないが。
 

367 :名無しさん@HOME:2009/09/17(木) 16:39:45

ここへ来てからというもの、電車を乗り継ぎ数時間の距離にある実家へ帰ることができたのは二回だけ。
その二回ですら正月から頭を下げて

「お願いいたします、三泊だけで良いので行かせて下さい」

と言い続けさらに息子が

「○○のおばあちゃんち行きたい!なんで?なんでダメ?」

と涙ながらに食い下がりようやく許可がおりるといった感じ。本当に「許可」という言葉がぴったりだった。
 
この夏は、自分でもなぜなのかはわからないがどうしても実家に帰りたかった。
去年帰ったので今年は無理だろうなと諦めていたのに、なぜか「帰りたい!」と毎晩のように思った。
 
お盆も過ぎたある日の夕食後、夫だけに

「来年から長男も小学校だし、この夏に帰りたいんだけど」

と言うと

「ばあさんたちに聞きなよ」

と否定はしなかった。エプロンを外してウトメのところへ行き

「去年も帰らせていただいて何なのですが、来週あたり実家の方へ行きたいと思って…」

と頼むとウトメが同時に眉間に皺を寄せた。ああ、やっぱりな…と思ったら
 
「は、好きにすればええが」
 
と思いもよらなかった答えが返ってきた。私のことがどうでもいいのはわかっているので裏など読まず飛び上がって喜びそうになったがこらえ、「ありがとうございます」と頭を下げて台所へ戻った。
 
翌日、みなが出ていったのを確認して弁当を準備したあと、衝動的にドタドタと荷物をまとめた。
もともと持ち物は少なく、私と息子らの三人分の荷物が、大きめのトートバッグひとつにおさまった。
そして念には念を入れて洗面所にバッグを置き、その上から洗濯物をかぶせた。もしものときに言い訳がきくように。
 

368 :名無しさん@HOME:2009/09/17(木) 16:39:58

お茶と弁当を届け、家に戻るスピードの速いことといったらなかった。長男は走り、次男はかついで早歩きした。
湿ってしまったトートバッグを肩にかけ、下駄箱の上の牛乳代と新聞代をグシャッとつかんで巾着袋に入れた。

そして歩いて、歩いて、歩いて、歩き続け、高速バスの停留所が見える頃には空が赤く染まってきた。
昼寝もせずに移動したものだから兄弟そろってグズり、腕の感覚がなくなるほど抱いてでも止まらなかった。
やがて次男が背中で寝ると、長男が「ぼく歩くよ」と言ってくれて手をつないだ。

腰を曲げながら歩くのは本当にしんどかったが、あふれ出す感情で顔をぐしゃぐしゃにして長男を褒め、歩いた。
 
バス停でバスを待つ間、気が気ではなかった。

今頃あいつらは帰宅しただろうか?
そして気付いただろうか?
夕食の用意も、お風呂も、洗濯物も取り込んでいないのに気付いただろうか?

「そういえば今日帰るって言ってたっけ」と思われたらまだいいが、「逃げた?」「事故?」と思われたら?
死ぬ気で歩いてきたこの三時間が、車一台のスピードでパァになってしまうんじゃないか?
次男の泣き声でここが見つかったらどうしようという気持ちで、必死で背中を揺らしているとき待ちわびていたバスがやってきた。
今にも沈みそうな夕日に照らされて赤く、そして金色に輝いて見えた。
そんな必要もないのに大きく手を振った。
 
席について真っ先にしたことは、後ろを振り返り、誰も見ていなかったかどうかの確認だった。
自分が見る限り、バス停の周りには誰もおらず、乗客も運転手も全く知らない顔だった。
駅に着き、とりあえず新幹線が停まる駅までの切符を買った。実家に電話するより何より、早く、早くと焦っていた。
バスの中でいくらか寝たからか、電車内での息子らは落ち着いていてくれて助かった。
「ばあちゃんち?」「そうや」「ほんとう? やった」「やった」そんな会話を何度も繰り返した。
 

369 :名無しさん@HOME:2009/09/17(木) 16:40:13
大きな駅について巾着袋を開くと、残りは十円玉が数枚だった。実家に電話すると母親が出た。
 
「母ちゃん…! わたしあのね、今ね(泣きそう)」
「○子!? 今どこ!?」
「○○駅」
「孫たちは!? お金もっとんか!?」
「一緒、お金、もうないねん」
「今から父ちゃんとそこまで行くから!目立たんとこで待って、二時間したらロータリーに出ておいで!」
 
受話器を置くと同時に泣いた。鼻水がダラダラ流れるぐらい泣いてしまった。

助かるんだ。私は助かるんだ。

人が少ない方面の、明かりが少ない階段の下で三人で話しながら鼻をズルズルと鳴らした。
一時間半で待ちきれなくなってロータリーへ出たら、もう父親が待ちかまえていた。
 
乗り込んだ車のシートの柔らかかったこと。優しかったこと。
息子らを抱える母と、険しい顔で運転する父を見て「ごべんね…」とだけ言って寝入ってしまった。
 
実家についたら兄と姉もきてくれていた。
姉が食事を用意してくれて、お風呂わかしてくれて、和室にお布団、三人分の着替えまであった。
兄が息子らをお風呂に入れてくれている間、お腹がすいて待てなくて食事をガッつこうとしたが口いっぱいほおばったところでとうとう、わあわあと声をあげて泣いてしまった。

久しく口にしていなかった肉の匂いがますます哀しさを呼んで、子どもみたいに泣き、眠った。
 
370 :名無しさん@HOME:2009/09/17(木) 16:40:27

ゲラゲラ笑う声で目が覚めると九時をまわっていた。
寝過ぎたからか頭がものすごく痛かったが、胸のうちはすっかり晴れている感じがしたのを覚えている。
 
姉が勤めている託児所に息子らを預け、日が暮れるまで母と話した。
といっても私が一方的にしゃべり倒して、母はただうんうんと聞いていたと思う。
朝と夕、義実家からの電話が鳴り続けたが、それ以外は静かだった。
 
家族に会い、友人に会い、話を聞いてもらって数日。
すっかり元気になった頃に義実家から連絡が入った。「そろそろ帰ってこないと知らないぞ」とのこと。
父が「まあ、いろいろとお世話になったようで、ねえ?」と言ったのをきっかけにウトがキレた。
 
「くだらん家のしょうもない女をもらってやったのに偉そうな口のきき方をするな」
「一旦嫁に来たなら二度と帰ることは許されん、それがうちのしきたりやが」
「跡取り孫がどうしてもと言うからそんなところまで行かせてやっただけや」
「掃除も洗濯も溜まりまくっとる、年とったばあさんにおさんどん全部させる気か」
「夫くんの顔もわしらの顔も丸つぶれ、近所に顔向けできん」
「戻ったらただで済むと思うなよ」
「家族総出で謝りに来い」
「嫁の代わりと孫を返すなら考えてやってもいいが慰謝料は言い値で払え」
 
などなど、録音されているのも知らず、ビリビリと音割れするほどの大声でぶちかましてくれた。
以前の私なら萎縮してぶるぶる震え、最終に飛び乗ってでも義実家へ戻っていただろう。
 
371 :名無しさん@HOME:2009/09/17(木) 16:40:37
 
なぜか実家に帰りたくなり、なぜか元気になり、なぜか義実家連中が怖くなくなった。
父から受話器を取って
 
「どうもお世話になりましたー! もうむりむり、むっりー」
「え?話ですか?何の話ですか?は?意味がわかりませんねー」
「こちらまで来るなら考えてもいいですけどねー?考えるだけですけどー、で、夫くんは?」
「ああ、もうあんた無理ホンマむりwwwごめwwwwがんばwww」
「何かあったら?は?携帯もってないしwwあんたがここに電話するしかないしwwwうぇwwwww」
 
みたいなことをしゃべっていたらウトが横から「離婚や!」と言ってくれたので、

「ざーーーす!じゃ署名捺印して離婚届送ってくださいねー!お待ちしてまーす!」

と言って切った。
それから一ヶ月経つがまだ送られてこないし、徐々にトーンダウンした電話しかこないのでどうしたものか考え中。
 
超がつく長文、失礼いたしました。
 
740 :1/3:2010/08/10(火) 20:21:50


覚えて下さっている方がいらっしゃるかどうかわかりませんが…
夕日に照らされて黄金に輝くバスに乗り、クソのつくド田舎から逃げた嫁です。
ようやく落ち着いたなと思えるようになったので、その後のことなど報告させて下さい。
 
実家に戻り、クソウトに暴言を吐いてからしばらくは表面上おだやかでした。
が、義実家とその周辺では「嫁が跡取りをさらって逃げた」と大騒ぎだった様子。
(といってもウトメがあちこちにないことないこと触れ回り、暇なご近所がのっかっただけ)
夫から「嫁子も息子たちも元気か」「すまない」と電話があったのは一ヶ月後でした。
 
そして季節が変わる頃、実家に分厚い封書が届き、開封したところ中から便箋10枚…

「嫁子は人さらい、跡取り(特に長男)を連れ去った罪は重い、どこの馬の骨かわからない女を
今までどれだけ尽くし面倒をみてきたか全くわかっていない、それを許して囲う両親もバカ野郎だ、これを読んだら即刻長男を○○に戻し、嫁子には謝罪と今後の介護と家業の全てを命ずる、○○(集落)の人間には全て暴露してあるから日本中に逃げる場所はないと思え」

といった旨の内容がカタカナと方言混じりのクソウトの字で書かれていました。
おまけに、もともと私にはないはずの「ウト名義の土地田畑家屋全てを相続する権利(?)」
を放棄する内容の誓約書まで同封されていました。「甲」が「申」でした。

 
741 :2/3:2010/08/10(火) 20:22:29

集落にいた頃の私ならきっと震え上がって戻っていたことでしょう。
しかし実家でごくごく普通の生活を送っているうち、体も心も正常になっていたようで
真ん中から派手に破ってゴミ箱へ捨てることができました。
 
少し話はズレますが、実は長男に発達障害があることがやっとわかりました。
というのは、私はおかしいと気付いていたのですが、あそこでは為す術がなかったのです。
本屋も、病院も、子どもも友人もなく、NHKの番組だけが頼りでした。新聞をチェックして
ウトメと夫が作業に出ている間の家事、その合間、15分の番組を食い入るようにみていました。
誰が入ってくるかわからないのでいつもは締めない玄関の鍵をしめ、障子をしめて、音量を小さくして…。

(「○○の嫁がテレビをみていた」→「○○の嫁は家事をしないボンクラ」→ウトメの説教になる)
 
ここではしかるべき機関があり、知識も理解もある人がたくさんいて、本もたくさん買えます。
市の療育センターで面談とテストを受けて診断をいただき、入学先では通常級で頑張っています。
もしあそこにいたままだったら…ウトメが知ったら発達障害が何であるかもわからないまま、知ろうともしないまま、全てを私のせいされ、周りの人間は憶測でものを言いふらすのが
目に見えるようにわかります。長男のためにも、逃げてきてよかったと心から思っています。
 
あのド田舎生活でひとつだけ良かったことは、息子たちの足腰が強く育ったことでしょうか。
あらゆる天候のなか毎日往復4~5キロの散歩は、都会ではそうできるものではありません。
交通事故や犯罪の心配をせず、大自然の中をただ歩き続けながら季節を感じられたことは
息子たちにとって素晴らしい経験だったのではないかと思っています。
 

742 :3/3:2010/08/10(火) 20:23:21
 
そして影の薄い夫ですが、まだ離婚はしていません。今までに四度、単身でこちらへやってきました。
はじめのうちこそウトメの影響を受けて「帰ってこれないのか」などと斜め上発言をしていましたが
会うたびにハツラツと健康になっていく私自身を目の当たりにして徐々に変わっていきました。
自分で言うのもなんですが十歳は若返ったと思うのです(といっても実年齢相応に戻っただけです)。
 
「ウトメ」「育った環境」「代々の土地」「跡取り」という思い込み、しがらみから脱出するのには
まだまだ時間がかかるとは思います。小さな頃からの刷り込みは本当にすごいものですから。
でも三度目の訪問時、バッグからのぞいていたのは現代農業について特集された起業誌でした。
それが何を意味するのか、今の私には想像することしかできません。
穏やかで静かな夫がその胸の内を私に明かしてくれるまで、待っていようと思っています。
 
それでは。

ハッピーエンドでよかったです。しかし壮絶過ぎる。

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Posted by ayu